最終話.奏
薄暗い夕空を流れ窓に打ち付ける雨は、昨夜からずっと一定の勢いで降り続けていたものだ。強くもなく弱くもなく実に中途半端なそれは、量は多いがひとつひとつの雨粒は小さい。音は『しとしと』と『ざあざあ』の中間あたりだろうか。
「あめ、やまないなぁ……」
ぼんやりと無気力に窓の外を眺める綱吉は、雨が降り始めた頃から今にいたるまで、ずっとこうして雨を観察し続けていた。星のない夜などあっという間に越え、朝焼けは遠くの空を灰色からねずみ色に変えた程度に終わり、昼の暖かな太陽は厚い雲に隠され微塵も見えず、今まさに輝いているはずの夕焼けは片鱗も見せない。このままじっとしていれば、また暗い夜が来る。ひとりぼっちの、夜が。時間感覚はとっくにめちゃくちゃで、1分も1時間も綱吉にとっては大差なかった。食事もしないで部屋に篭る綱吉を心配した母や九代目たちがしばしば顔を見せたものの、ドア越しの彼らの言葉は綱吉の耳を素通りするばかりだった。部屋の入り口付近にそっと置かれたおにぎりも、もう表面は乾いてしまっている。
綱吉は明確な意思も持たないまま、ただ代わり映えのしない空を見つめていた。
(つまんないな……。ふたりがいないと、なんにもすることないや。……ふたりとも、いまどこらへんにいるんだろうな)
綱吉は、結局白蘭とは何の挨拶も出来ないままに別れてしまっていた。骸に対しても、今思えばたくさん言うべきことがあったはずなのに、別れの際には涙を堪えるのに一生懸命で、何ひとつまともな言葉には出来なかった。迷う骸の背を押したことに後悔はしていないけれど、唯一その点に関しては悔やまれた。
(でも、また、あえるよね。ぜったい、あえるよね……)
会った時に言えばいいじゃないか、と自分を説得して、綱吉は再び意識を雨に戻した。堪えた涙が空から落ちているのかもしれない。そんな空想的な考えが過る。それならば雨がやまない理由も簡単に納得出来るから。
「ムクロ……ビャクラン……」
ぽつりと零して、綱吉は枕の横に転がっているオモチャをふたつ一緒に抱き上げた。白いドラゴンのぬいぐるみと、赤い飛行機の模型。二人のお気に入りで、今は綱吉のお気に入り。ぎゅう、とそれらを強く胸に押し付ける。色も手触りも白蘭に似ているぬいぐるみは、暖かいように思えてもその実綱吉自身の熱を溜め込んでいるに過ぎず、どことなく骸を思わせる飛行機模型の冷たいプラスチックは、やがて温くはなっても決して熱くはならない。雨によって冷えた空気は空調の効いた部屋の中にあっても綱吉を凍えさせた。
「ムクロ……、ビャク、ラン……っ」
その時だった。
「う、ァッ、ぁああああああッ!?」
それは随分と単純な、悲鳴のような音だった。恐怖と驚愕とに彩られた、本能的な叫び。男のもののようだ。
「な、なに……?」
雨にとられていた意識が現実に引き戻され、綱吉は身を硬くした。
――ぱきり。
緊張で腕に力が籠ってしまったのか、綱吉の胸の中で小さな破砕音がした。恐る恐る腕を開いて愕然とする。模型の真っ赤に塗られた翼が片方だけ折れていたのだ。
「あ……!」
片方だけでは、飛べない。骸の飛行機は飛べなくなってしまった。
「ムクロ――?」
名を呟いた時、脳裏を掠めるものがあった。頭の中でカラスが鳴いているような、気持ちの悪い音が鳴り響く。唐突な吐き気が続き、五感が鋭敏になっていく。遠く聞こえる悲鳴のような音はいつしか男女の悲鳴そのものに変わり、空気が途端に重みを増す。
(なに……!? なにか、くる……?)
脳裏に掠めていただけの何かがひとりでに像を結ぼうとしていた。頭の中でもやもやとした赤黒い塊が産まれ、ゆらゆらと蠢く。辺りを覆うような悲鳴がどんどん大きくなっていく。それとは別に、脳に直接何かの絶叫が聞こえた。際限なく響くそれに耳を塞ぐが、意味をなさない。
(……! おこって、る? ない、てるの……?)
綱吉は知らず知らずのうちに未知の感覚を研ぎすませていた。すると、頭に巣食った曖昧な塊が急速に形をなし、意味をもっていく。それは紅色の巨大な瞳のイメージだった。
「――!」
そして綱吉は絶叫の中に紛れた小さな声を確かに聞き取り、即座に部屋を飛び出していた。
綱吉の部屋には、白いぬいぐるみがぽつりと取り残された。
「くそっ、薄気味の悪い……!」
「銃が通じないのかっ?」
玄関を出ればずぐに焦りの声が鮮明に聞こえ、綱吉は激しい息遣いに喉の奥を鳴らしながら必死に走った。分家とは言えドン・ボンゴレの直系の血筋である沢田家の敷地は広く、玄関から外門までは遠い。雨が容赦なく綱吉の全身を濡らし、重みを増した服は綱吉の動きを絡めとる。それでも綱吉は不格好に走り続けた。
「……!? つ、綱吉殿!? 来てはなりません!」
途中、綱吉に気付いた守衛が綱吉を阻むように立ちはだかる。その様子は至極真剣であり、何者かから庇うような懸命な姿でもあった。けれど今、綱吉はその『何者か』に会わなければならないのだ。
「ごめん、どいて!」
いつも骸と白蘭に置いていかれないようにするのが精一杯だったはずの綱吉は、うっすらと額に橙色の光を宿しながら思いきり跳躍した。小さな手を男の肩につき、そのまま男の頭上で軽業のように回転しつつ跳び越す。綱吉の思わぬ行動に、男は反応しきれなかった。
「お、お待ちください!」
慌てて振り返り、男は綱吉を追った。しかし、轟く銃声に焦り速度を上げた綱吉は疾風のようで、到底追いつけるものではなかった。
「ダメ、うたないで!! やめっ――」
綱吉は叫びながら外門を飛び出す。そして言葉を失った。
「……、ぅ……な、……し、く……」
低い低い声がした。綱吉の視界には、ずるりと蠢く『それ』がある。血なのか体液なのか、黒ずんだ液体を濡れた地面へ広げながら、『それ』は綱吉に棒を差し向ける。先が五本に分かれた歪な棒は、腕――なのだろうか。それすらも曖昧な見た目は、どうなったらそうなるのかもわからないほどに損傷が激しく、見るに耐えなかった。
「う、ぇ……っ」
焦点が合った瞬間、猛烈な吐き気が綱吉を襲った。胃がしきりに中身を押し出そうと蠕動運動を試みている。がくがくと震える両手を口に当てれば、その拍子に飛行機の模型は濡れた地に落ちて割れ、水たまりに広がった。
「ッ、ぐ……!」
綱吉は必死に吐き気を堪えた。胸の内から溢れた感情が、全身の震えごと胃の蠕動を抑える。綱吉には、見えていたのだ。肉塊としか呼べないような『それ』の、べったりと張り付いた黒髪の隙間に覗く――懐かしい、紅い瞳を。
「む、くろ」
ポツリと、その名を呟く。疑問でも確認でもなく、小さいながらも確かな呼びかけ。
肉塊は目に見えてびくりと震え、次いで赤黒い唇をわなわなと動かした。
「……ぅ、な、よし、っ、よ、しくん、つな、しくん、つ、ぅなよ、し、ん、つなっ、つなよし、くん……!」
「ムクロ!!」
ようやく紡がれた名に、綱吉は声を上げて肉塊に成り果てた友へと駆け寄った。
「――綱吉殿をお護りしろ!!」
だが鋭い指示と同時、長く残る銃声が反響した。
「っ……!!」
銃弾は綱吉の小さな身体の脇を縫うようにして的確に飛び、骸の紅い瞳のすぐ傍、おそらくは眉間のあたりを撃ち抜いた。
「あ……?」
どくん。空気が、脈打つ。
「や、やめてぇ!!」
綱吉が骸を庇うように抱きしめたことで、銃がこれ以上火を噴くことはなかった。けれど。
「ぅ、あ! う゛ぁぅ……ッ!!」
骸の呻き声と羽音のような不気味な鈍い音が重なった。ぼろぼろの手で右目を押さえ、骸は激しく痙攣し始める。
(なに……?)
ぞわりとした悪寒めいたものが冷や水か何かのように綱吉の背中を伝い落ちた。
(……なにか、くる!)
咄嗟にぎゅっと骸を抱きしめる腕に力を込める。しかしそのナニカは、綱吉の腕の中の骸から解き放たれた。
「がっ!?」
「あぁっ、ぁ……!?」
驚愕に彩られた声音に振り向くと、先程まで骸に銃を向けていたはずの男達が頭を押さえ、足元が綿にでもなったかのようにふらふらと揺れていた。
「みん、な……?」
状況に理解が追い付かない綱吉の目の前で、彼らはがくがくと激しく痙攣し始める。その目は雨空を見つめているようにも、空気を見つめているようにも見えて、意思が窺えない。
「あっ、ひゅぁああいはばぁがあっ!!」
「けはははっひはっあ、あ、ああああ!!」
「はひい、ぃいあああ!!」
一斉にあがった奇声に、綱吉は思わず耳を抑えた。
(なに、これ!? なにがおこってるの!?)
「…………え……、く、るえ……じゃ、ま、……ぼ、くを、ひて、い……んなの、いら、ない、……つな、し、いがい、……らない……!」
「え――?」
微かに聞こえた呟きに戦慄が走った。
「ムクロ……?」
「く、ふは、ふふ、くふふふ、ぅふ、ふふふ!」
骸は右目を押さえたまま嗤っていた。仄暗い海のさざ波を思わせる、不気味な声で。それは確かに綱吉の知る骸の声だった。艶めいた、けれどまだ少年の気配のする声。なのに、何かが違う。じっとりと嫌な気配が綱吉の胃に貼り付き、消えない。
「む、ムクロ、なに……? ねえ、これ、なに!? これ、ムクロがやってるの!? ねえ、ムクロ!!」
綱吉に呼ばれ、骸は嗤うのをぴたりとやめた。だがファミリーの男たちの奇声はやまず、事態は何も変わらない。むしろ時間が経つにつれて彼らの目は真っ赤に血走り、今にも眼孔からこぼれ落ちそうなほどに外へと突き出していく。まるで辺りを探る蝸牛のようだ。
青ざめる綱吉にくすりと笑ってみせて、骸は狙いの定まらない腕を伸ばす。綱吉の、丸い頬へ。
「つな、よしく……きづいて、くれた。いいこ……きみ、だけ。きみ、が、す、べて……。……らない、ほか、は、いら、ない。あい、つは……けだ、もの! まふぃ、あ……うばった……うばった……ぼくの……! もう、なに、も、ない……。つな、……し、そば、に……」
冷たい手のひらが綱吉の顔を辿る。赤黒い液体が穢れた跡を残し、儀式めいた模様を作った。
「ね、つな……きて」
骸の腕とも言えない腕が背に回され、綱吉は苦しいほどに抱きしめられた。
「む、く……ッ?」
――いや、苦しい。骨が軋む音がする。何かが、おかしい。
「っ、ぅ……! ムク、ろ……!?」
綱吉の全身が悲鳴を上げる。綱吉の背を引き寄せる骸の腕は、過剰な力に耐えきれずぐちゅりと嫌な音を立てて形を変えていた。脆い身体に新鮮な肉体を取り込むかのようなその行為は、蜘蛛の捕食を思わせる。
「ム、クっ、ぐ、ン……ぅ……!」
「もう、きみ、だ、け。どこ……も、い、かな、で……!」
異常な行動の中で、骸の声はあまりにも切なく響いた。綱吉にはその声に抗うことなど到底出来ず、また抗う気にもなれなかった。骸はただ縋っているだけなのだ。縋る身体を突き放すことなど、出来なかった。
「つな、よし……ぼく、は――」
「やはりこうなったか」
突如降って来た硬い声と同時、何かステッキのようなものも先端が骸の額に押し付けられた。
「っ!?」
途端、ステッキの先端に燈された炎が綱吉を避けて骸の身体に巻き付き、燃え上がる。
「う、ぁっ、あ! つなっ、つな、よ、くん……ッ!! あァっ、あ゛っや……ッ!」
人を燃やさぬはずの浄化の炎に、骸は身を焦がすでもなく黒い霧状の何かを噴出し、悶え苦しんだ。手は顔を覆い指は右の目を掻きむしり、綱吉は意図なく開放される。
「う、え、けほっ……!」
(ほのお……っ、じーちゃん!)
見覚えのある色に、綱吉の頭の中では一人の老人が微笑を浮かべていた。
「じぃ、ちゃ――」
綱吉は本能的な安堵を感じつつ振り向き、息を詰まらせた。
「…………」
苦しむ骸を前に微動だにしない老人――ボンゴレ九代目は、非情にも表情ひとつ動かさず静かに骸を見つめていた。正邪を分ける炎に巻かれ、燃える骸を。
「なに……してるの。なにしてるの、じーちゃん!!」
綱吉は悲鳴を上げて骸に駆け寄る。
「ムク――ッ!?」
その腕は九代目の手により引き止められていた。
「行ってはならん」
静かな、いっそ穏やかな声が綱吉を戒める。教科書を読み上げるような、無感情な響きだった。
「な、なんで……? やだっ、は、はなしてよ! ううん、いますぐほのおをけして! ムクロがっ、ムクロがもえちゃうよ!! ねえ、じーちゃん!!」
やめて、と。綱吉は精一杯に懇願したつもりだった。だが九代目は頷くこともせず静かに右手を懐に忍ばせ、黒光を放つ金属の塊を無造作に取り出した。かちり、と撃鉄を起こしながら。
「じぃ、ちゃん……?」
見覚えのある物を構える親しい人の姿は、もはや他人にしか見えなかった。朗らかな微笑の似合う優しい顔は、今は厳しく、冷たく、骸を無機質な視線で射抜いている。骸は今も苦しんでいるのに、その表情にはまったく変化がなかった。
「う、ウソでしょ……? ちがうよね? や、やだ……やだよ、やめて!! じーちゃん、やめてよ!!」
本気の気配を感じ取って、綱吉は九代目の足に縋りついた。九代目はようやく表情を変えたものの、それは綱吉の望むものとは程遠い、どこか達観したものだった。
「綱吉くん、あの子の存在は赦されないのだよ。あれは禁忌に連なるものだ。……見なさい、あのおぞましい姿を。あれは呪われている。この世にあってはならないのだよ」
銃口を軽く振って指し示す先には、炎に焼かれる顔を激しく振り乱し苦しむ骸がいた。燃え盛る炎の中から突き出た手は、綱吉には助けを求めているようにしか見えない。けれど九代目には、ただの奇妙なオブジェのように見えているのかもしれない。
(ヘン、だよ……。こんなの、ヘンだよ! みんなおかしい! ムクロがくるしんでるのがわからないの!?)
「じーちゃんのいうこと、ぜんっぜんわかんないよ!! キンキ? なにそれ!? わかるようにいってよ! ねえ、ムクロがじーちゃんになにかしたの!? あんなにくるしんでるのに、もっとひどいことするほどいけないことしたの!?」
「あの子の存在そのものがいけないことなんだよ、綱吉くん。あれはそこにあるだけで不幸を呼ぶ。そしていつか君に害を為すだろう。それを赦すことなど私には出来ない」
「オトナのりくつなんてききたくない!! オレがききたいのは! ムクロが! じーちゃんじしんに! なにかしたのかってことだよ!!」
強い意思が輝く瞳に、九代目は、ぐ、と押し黙った。
「こたえられないなら、じーちゃんにムクロをどうにかするしかくなんてない!!」
その一喝はあまりにも純粋で、そして子供の理屈でしかなかった。けれど、綱吉の額に燈った小さな炎は強く強く輝いていた。
「うぁ、う……つ、な、よしく……っ」
「ムクロ!!」
枯れた呻き声に応えようと、綱吉は九代目の腕を振り払って足を踏み出した。
「待ちなさい!」
だが再び九代目の手が綱吉の細い手首を掴む。
「はなせ!!」
がりっ。綱吉の小さな顎が九代目のしわくちゃの肉を噛みちぎった。
「ぐっ!?」
一瞬生まれた隙に、綱吉は悶える骸へと駆け寄った。そして迷いなく感情のままに骸を抱きしめる。骸を灼く炎は綱吉の額の炎に同化し、少しずつ小さくなっていく。
「おちついて、ムクロ。だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。だいじょうぶだからね。じっとしてて」
「ぅ、あぅ……つ、な……」
融けた肌をぼたりと落としながら、骸はそれでも綱吉の背に腕を回し、強く抱きしめた。
「つ、なよし……!」
「い、う……ッ! む、くろ、だいじょうぶ……、だから。おち、ついて。オレ、は……ぐっ、こ、ここに、いるから!」
痛みに苛まれながらも、綱吉は骸を抱き返す。互いに押しつぶすような抱擁だった。
「……やめなさい、綱吉くん。私は君の家族である前に、ボンゴレファミリーのドンだ。上に立つ者としての責任がある。禍の種は、摘まねばならない」
綱吉の背中にかかる声は、初めて苦悩を帯びていた。だがそれでも九代目は銃口を骸へと向け続ける。綱吉の肩に縋る骸の、紅い右目へ。
しかし、
「綱吉くん、君は……!」
綱吉は骸の頭を無理矢理に抱き込むようにして自身の身体を盾にしていた。綱吉の心臓の奥に、骸の右目はある。
「オレ、じーちゃんはだいすきだよ。でも、キュウダイメはきらいだ。じーちゃんをキュウダイメにしたマフィアもだいっきらいだ! ムクロをくるしめるオトナはみんなきらいだ!!」
炎の残滓が風に溶けて、九代目の浄化の炎は完全に消え去った。そのかわりに綱吉の炎が骸を護るように包み、骸はその中で小さく綱吉の名を呼び続けていた。
綱吉はそれに応えるように骸を抱く腕に更に力を込める。
「ムクロ、ムクロ。ねえ、ムクロ? だいすきだよ、ムクロ。だから、よくきいて。あのね、みんなにかけてるまほうみたいなの、といてあげて? ムクロをきずつけさせたりなんか、しないから。オレがムクロをまもるから。それでね、みんなじゃなくて、じぶんにまほうをかけてあげるの。オレ、ちとかホントはコワイんだ。だから、もとのムクロにもどってほしい。ね、おねがいだよ」
綱吉は子守唄で赤子をあやすかのように囁く。背中には変わらず銃口が向けられているというのに、その声には曇りがなく、闇の淵を彷徨う骸にも真っ直ぐに届いていた。
「な、んでも、します……。そ、ばに、い、て……れば……。まフィ……あ、に、つれ、いか……れ、ないで……。きえな、いで。うら……ぎ、らな、で。どうか……きみ、だけは……っ」
「うん。うん。だいじょうぶだよ。どこにもいかないよ。ずっとムクロのそばにいるよ。……ううん、そばにいさせてほしいんだ。オレがおねがいしたいくらいだよ。うらぎったりなんか、しない。ムクロのこと、だいすきだもん」
「……つ、な……よし……っ!」
す、と空気の重みがなくなる感覚。目に見えない重圧が消え、九代目の背後でのたうっていた男たちは突如夢から醒めたように動きをとめてぱちぱちと大きく瞬いた。
「これは……っ」
九代目は、知らず知らずのうちに銃を降ろしていた。驚愕に眉を上げ、静かに見つめ合う二人に視線をやる。綱吉は九代目のことなど見てはいなかった。弱々しく縋りつく骸の頭を何度も撫で、その度に赤黒い体液が綱吉の手を汚しても、それすら綱吉は見ていなかった。骸の、瞼すらない剥き出しの眼球に自身を映し込んで、朗らかに微笑む。
「ありがとう、ムクロ。ありがとうね。さあ、つぎはムクロのばんだよ。オレのしってるムクロにもどって? そうしたら、またたくさんあそぼうよ。つかれてねむるまで、ずっとあそぼ。ね?」
ゆっくりと、綱吉は骸の紅い右目の縁をなぞるように撫でた。
「こんな、ぼく、でも……きみの、たから、もの、に、なれますか」
「ムクロはモノじゃない。だから……んー、タカラビト? ふふ、やっぱりなんかヘンだね! うん、ムクロはヒトだけど、オレのいちばんたいせつな、タカラモノだよ。ぜったいに、はなれたりしないの。ずっと、そばに……」
「…………」
骸はおもむろに綱吉の手をとり、その白い甲にそっと口付けた。
「わっ――」
頬を染める綱吉の目の前で、骸の乱れた黒髪がさらりと滑らかに揺れて青みを帯びていく。融けて爛れた身体は真新しい皮膚に被い隠され、同時に全身の骨格が二回りも三回りも縮む。そこに血の跡はなく、シンプルなシャツと短パンが洗い立てのように白く輝いた。
「……マフィアは嫌いだ。穢らわしい。全部滅びればいい。……でも――」
危なげなく呟いて、骸は顔を上げた。綱吉のよく知る、幼くも美しい顔に、特徴的な髪。別れた日のままの骸がそこにいた。そしてくしゃりと今にも涙を零しそうなほどに表情を歪めて、壊れ物を扱うように繊細に綱吉の背中に腕を回す。
「君は、好き。好き、です」
力を込めた腕は先程とはまったく違い、真に愛情のみが現れていた。
「どこにも、いかないで。裏切らないで。僕を否定しないで。そばにいて。大好きなんです……綱吉君……っ」
「……うん。オレも、だいすきだよ、ムクロ」
互いに互いを慈しむように抱き寄せて、綱吉は涙し、骸は動きを止めているはずの心臓をとくりと脈打たせる。
灰色の雨雲が、僅かに割れていた。
「……これは?」
幻覚は写真には写らないことを聞いて、綱吉は骸とともに集合写真をボイコットしていた。入学早々の初サボリだ。そうして桜の香りのする校舎裏で、綱吉はあるものを取り出したのだった。
「こないだいっしょに近所をたんけんした時、だがし屋さん見つけたでしょ? チラっと見えただけだったけど、ムクロの目の色によくにてたから、つい」
悪戯っぽく笑って、綱吉はそれを青空にかざした。少し大きめの、手のひらに乗るくらいのビー玉。空の色を濃くしたようなそれは、太陽の光を受けて綱吉の顔に青い光をきらきらと落とした。
その光景に骸は思わず見とれていたのだが、それはすぐに終わる。
「はい! プレゼント!」
綱吉はあっさりとそのビー玉を骸に差し出していた。
「え……?」
「にゅーがくいわい! あと、ひっこしいわい! それから、これからもよろしくのワイロ!」
からからと楽しそうに笑いながら幼い口調で物騒なことを言う綱吉に、骸は思わずくすりと笑った。
「おやおや。どこで覚えたんですか、賄賂なんて言葉」
「ふふー! まえにうちに来てたおじさんがブツブツ言ってたんだ。ほら、もう小学生だしね、むずかしいことばもおぼえられるんだよ!」
「……マフィアの言うことなんて覚えちゃ駄目ですよ、綱吉君。君が穢れる」
「だいじょうぶだよ、これがさいごだから。ほら、もう家もちがうしね」
あれから。綱吉と骸はあの地を離れていた。世間的には単なる引っ越しだが、それが持つ意味は大きい。綱吉はごく普通の生活を望み、十代目候補となることを拒んだのだ。九代目は異を唱えることもなく、ただ綱吉の頭を一撫でしてイタリアへ帰っていった。
綱吉は今、ごく普通の小さな家で、母親と二人で暮らしている。そして骸は、そのすぐ近くにあるマンションの一室で一人きりの生活を始めていた。一緒に住めばいいと綱吉は誘ったのだが、骸が首を縦に振ることはなく、また、綱吉も無理強いすることはなかった。
それから平和な時間が少し経って、二人は同じ小学校に入学することとなった。二人とも、ごくごく普通の子供が辿る道を追いかけることに一生懸命だった。
――白蘭のことは、あれ以来話していない。
「……オレさ、ずっとせけん知らずだったけど、これからはムクロといっしょにふつうの毎日をすごしたいんだ。そのために、オレは今日からあたらしい自分になる!」
綱吉は骸の手をとって、ビー玉を握らせた。
「だから、あたらしいツナヨシともずっとなかよくしてね、ムクロ」
日だまりを思わせる眩しい笑みは、骸の冷たい身体をほんのりと暖めた気がした。
「……君が、望むなら。望んでくれるのなら、僕はいつまでも君のそばに」
ビー玉をそっと握り、骸はそっと綱吉の両目を空いている手で覆い隠した。
「ムクロ?」
不思議そうにする綱吉は、それでも抵抗などしない。骸は穏やかに微笑んで、ビー玉を自身の左の眼孔に呆気なく押し込んだ。
ぐぢゅっ。
「ひぇっ!?」
不気味な水音がして綱吉は身をすくめたけれど、すぐに肩から力を抜いて事態を理解したようだった。
「あーうーあー……も、もういい?」
「ええ、どうぞ」
手が外されて、綱吉は開けた視界の中で骸の左目を見つめた。先ほどまで手のひらに光を落としていたそれは、紅の瞳と対をなして蒼色に輝いていた。
「……キレイ。うん。よくにあってるよ、ムクロ。でもゴメンね、ちょっとびっくりした」
「クフフ、ごめんなさい。いつだって持っていたくて……。すごく嬉しいんです。ありがとうございます、綱吉君」
骸はきゅぅ、と綱吉を抱きしめ、綱吉の自由に跳ねた癖毛に顔を埋めた。安心感と幸福感、そして確かな情欲が生まれる。すべてが変わったあの日から、骸は不思議な願望を抱くようになっていた。綱吉のすべてを己の内に閉じ込めて、誰にも触れられないようにして、綱吉の存在を自分だけが感じて、感じて、感じて――繋がっていたい、と。どんな方法でもいい、綱吉を繋ぎ止めていたかった。
骸は今、にっこりと純粋に笑む綱吉のすべてを暴いてしまいたい衝動にかられていた。
「……大好きですよ、綱吉君。僕の対は君。いつか君と、ひとつに……」
「わひゃっ!?」
骸に耳朶を甘く噛まれ、綱吉はおかしな声を上げて僅かに飛び上がった。
「ん……」
骸はそれにも構わず綱吉の頬に口付け、ぺろりと偽の体温を持つ舌を這わせる。
「ひぇっ!? ちょ、ちょっとムクロっ、それめちゃくちゃくすぐったい! あはっ、くすぐったいってばぁ! ふへへっ、わっ! やめてよぅっ!」
けらけらと愉しそうに笑う綱吉の頬に何度となく口付け、骸は舌でその肌をなぞった。
「わ、ぁうっ!」
柔らかくて滑らかな頬、
「ひぁっ?」
まだ丸い顎のライン、
「ちょ、やめろよー! ふふっ、わっ、んんっ!」
男らしさのかけらもない首筋、
「ムクっ……ひゃんっ!」
くっきりと浮いた鎖骨。
「ふァっ……だっ、だあああああ!!」
骸が胸元に顔を潜り込ませようとしたところで、綱吉は骸の胸を突き放した。
「っ、あ、あのなぁ! そういうことは、ふつうのトモダチ同士じゃしないんだよ!? これからはふつうにくらすんだから、ムクロもふつうにしないとダメ!」
綱吉がふざけつつも叱るように言うと、骸は一瞬眉を寄せたがすぐに曖昧な笑みを浮かべた。
「君が望むなら、努力はしましょう。でも、今は誰も見ていないのだから、いいでしょう? もう少しだけ、触れさせて」
ティーシャツの裾から手を差し入れ、骸は綱吉の薄い胸板を摩った。綱吉はびくりと肩を上げて、何とも言えない感覚に悶える。
「む、ムクロのあまえんぼう! もう! 今だけだよ?」
たわいない遊びだと笑って受け入れる綱吉は、何も知らない。その触れ合いの異質さも、骸の瞳に宿るねっとりとした感情も、何も。
(僕は君と同じになりたい。君と、繋がりたい。全部溶け合ってひとつになりたい。そうしたら、君は絶対に僕を裏切らない。離れない。真実しかない。嘘ばかりのあのケダモノとは違う。綱吉君は違う。綱吉君。優しい綱吉君。大好きな綱吉君。どうしようもないくらい、君が欲しい……)
その触れ合いの根底にある濃い感情を、骸は静かに自覚していた。それを解き放ってはならないことも。
「ずっと、そばにいてくださいね、綱吉君」
歯車は、いつかへ続く。
これにて、『幼き日の変奏曲』は完結です。
すいません、いくらなんでも前話から間が空き過ぎましたね……。
とにかく、幼い三人の話はここで終わります。この十年後が『いつかの〜』の方になります。
そういう意味で、真の完結編は『いつかの〜』の最終話にあたります。
もしよろしければ、そちらもご覧下さい。
ではでは、ここまでお読みくださりまして、本当にありがとうございました!
2009.9.21