13.曇天
ごそごそとベッドに何かが潜り込んで来て、骸は目を覚ました。
視界に入ったのは少し顔色の悪い気がする兄の寝顔。けれど、それだけではなかった。流れるような艶やかな黒髪に蒼い瞳。少しきつめの目は長い睫毛が縁取っている。骸とも白蘭とも似ていない、けれどその人は確かに――
(母さん……?)
「か――」
しぃー……
声を出そうとすると、唇に人差し指を添えられて止められた。少し、戸惑う。母にこんなふうに触れられたことなど今まで一度たりともなかった。
「良く聞きなさい、骸」
「……!」
名前を呼ばれたのも、いつ以来だろうか。咄嗟のことに骸は返事を返すことが出来なかった。
「母さんね、エストラーネオを捨てようと思うの」
「……え?」
骸は正直、今更何を言うのだろう、と思った。妾どころか娼婦同然の扱いを受けながらも、それでもあの男の傍にあり続けた女が、今更何を、と。
「ずっと堪えて来たけれど、もう限界よ。あの人は、この子にまで……!」
抑えた声に憤怒を潜ませて、母は白蘭の頬を撫でた。母親の顔、とでも言うのだろうか。その姿と理解不能な言葉は骸をひどく動揺させた。当たり前のように骸でもなく綱吉でもない誰かが白蘭に触れている光景など、想像も出来ないことだ。
「か、母さ――」
「逃げましょう、骸」
(…………今、なんて?)
目を見開いて動けないでいる骸の手を両手で包んで、母は骸を真っ直ぐに見つめた。距離が近い。びっくりするくらい強い瞳で、骸は目を逸らすことなど出来なかった。
「どこか遠くへ。誰もいないところへ行きましょう。三人で今度こそ普通に暮らすのよ。マフィアなんて関係ない。エストラーネオなんてどうでもいいの。ただ普通に、親子として。あなたと私と白蘭と。三人で幸せになりましょう」
母の言葉は、異国の奇怪な言語のようだった。初めての長い会話は現実味をかけらも持たず、骸を混乱させるばかり。そして当事者の三分の一である白蘭は、どうしてか未だ目覚める気配がない。
(三人――僕と白蘭と、母さん? 綱吉君は、どこに? 何故、今になって……どうして……?)
「そんなこと、僕は……僕には……」
「結論は今でなくていいの。でも、出来るだけ早く。これ以上あなた達が苦しまぬうちに、早く」
そう言うと、母は骸を抱き寄せた。胸の柔らかな感触が頬を包み、息苦しさなど感じないはずの骸は確かな苦しさを感じていた。どうしてかは、わからない。けれど、苦しい。母の感触を知ったのは、この時が初めてだった。
「今まで母親らしいことを何一つしてあげられなくてごめんなさい。一緒に過ごせる日が来るのを待っているわ」
ちゅ、と額に柔らかな厚みを押し付けて、母は離れた。眠る白蘭の額にも優しくキスを落として、安心させるような微笑みのまま部屋を後にした。
その背中はどこか儚げで、しかし強い母親のそれだった。母を母と感じたのは、きっとこれが初めてだった。
「…………ねぇ。ねぇ、白蘭」
混乱が収まらないうちに、骸は白蘭を呼んだ。でも、答えはなかった。白蘭は疲れ果てたように深い眠りに落ち、身じろぎひとつしない。いつもなら骸が起きれば同時に目を覚まし、おはようと言ってくれるのに。
「白蘭。白蘭、ねぇ……っ」
ゆさゆさと揺さぶっても呼吸すら乱さず、白蘭は眠り続けた。こんなことも、初めてだった。
「白蘭、起きて。僕は、僕たちはどうすればいいの……?」
……どうすればいい。
教えて、白蘭。
教えて、綱吉君……。
ピンポーン
「ビャクラ〜ン、ムクロ〜?」
ピンポンピンポーン
「あれ?」
いつもならインターホンを鳴らせばすぐに出迎えてくれるはずの二人が今日は来なかった。でも今日はおかしな胸騒ぎもないし、二人も、ついでに、護衛という名の監視役もちゃんといるような気がする。綱吉の場合、『気がする』というのはそのまま事実であることがほとんどだった。
不思議に思ってノブに手をかけてみると、ガチャリと最後まで回った。鍵がかかっていない。
「……ビャクラ〜ン、ムクロ〜? はいっちゃうよ〜?」
ドアを少しだけ開けて顔を出し、誰もいない廊下に向けて声をかけてみる。
「ねえ、いいの〜? ホントにはいるよ?」
繰り返してみても相変わらず返事はなく、綱吉は不安げにドアを押した。
「お、おじゃましまーす……」
誰も応えてくれなかったが、一応挨拶だけして玄関に足を踏み入れる。足下には全く同じデザインとサイズの二足の靴がきちんと並んでいた。どちらがどちらのものかはわからないが、間違いなく二人の靴だ。あまり服装に頓着しない二人は最低限の服しか持っておらず、靴も一足ずつしかないはずだった。
「ビャクラン? ムクロ?」
おーい、おーい、と何度か声をかけても、やはり中はとても静かだった。意を決して靴を揃えて玄関を上がり、勝手知ったる足取りで廊下を進む。
六道家に来るようになって、綱吉は今まで一度も白蘭達の両親に会ったことはなかった。いつもいつでも兄弟二人だけ。特殊な環境で生まれ育った綱吉は、普通はそんなものなのかなぁ、くらいにしか思っていなかったけれど、幼い兄弟二人が暮らすにはこの家は広かった。現に、廊下を歩いていくうちに通り過ぎる部屋は、ほとんどが使われていない。二階など、一室もだ。
そうしてリビングに辿りつき、奥にぽつんと存在するこげ茶色のドアを確認する。その先が白蘭と骸の寝室だった。その隣にもう一つ同じ色のドアがあるが、その奥にあるものを綱吉は知らない。ソファーにも二人の姿がないので、恐らくまだ寝室にいるのだろう。
こんこん、と軽くノックをする。
「ビャクラン、ムクロ? オレだけど、起きてる?」
そっと声をかければ、部屋の中からぎしりとベッドが軋む音が聞こえた。綱吉がホッとしたのもつかの間、ドアがバタンと勢い良く開いて手が伸びてきた。
「わっ!」
綱吉の腕が引かれ、あっと言う間に綱吉は骸の胸に顔を埋める形になっていた。
身長は大して変わらないので綱吉が腰を曲げている体勢だ。
少し低い体温が心地良いけれど、綱吉を抱き寄せる腕は僅かに震えていた。
「ど、どうしたの、ムクロ。なにかあった?」
「……綱吉君。もし僕らがいなくなったら、どうします……?」
弱々しい声に、綱吉はどきりとした。発言の内容もまた、綱吉の鼓動を早める。
「な、なにそれ? ムクロもビャクランも、いなくなっちゃうの……?」
「もしも、の話です。答えて下さい」
もしも、と骸は言ったけれど、綱吉の直感は否定していた。それに何か様子がおかしい。
(ビャクランは?)
いつも隣にいるはずの白蘭がいない。身体を少しずらしてベッドに目をやれば、白蘭の白い髪が見えた。規則正しく揺れているから、まだ寝ているのだろう。ほっとしつつも、それはそれで珍しいなと思った。
「綱吉君。答えて」
意識を白蘭に向けていた綱吉を呼び戻した真摯な声は、有無を言わせぬ強さを持っていた。
綱吉は顔を上げて答える。
「イヤ、だよ。イヤにきまってる。はなれたくなんか、ないよ」
その言葉に骸は安心したような表情になったが、その瞳はどこか陰っていた。
「そうですか。なら――」
「でもさ、」
「……?」
「でも、ほんとうにそれでいいの?」
「…………どういう、意味ですか」
「オレはムクロともビャクランともはなれたくないけど、でもムクロには、オレとはなれることでしか……うー……えられない、もの? が、あるんじゃないの」
綱吉のたどたどしい言葉は骸には理解しきれなかったらしい。骸は不安げに瞼を揺らして、綱吉の次なる言葉を待った。
「えとね、オレ、バカだからうまくいえないけど……。はなれても、あいにいけばいいんだよ。でも、はなれないことをえらんで、なくしちゃうものはない? そういう、ムクロにとってたいせつななにかは、ない?」
「……大切な何か?」
「そう。オレのたいせつなものはね、ムクロと、ビャクランと、それから、かぞくだよ」
「家族……白蘭?」
「うん。ほかには?」
「……いないと、思っていました。でも、今は――わからない」
「そっか。ひょっとして、いなくなるかもしれないのは、そのヒトのため?」
「……それも、わからない」
「じゃあ、ムクロがオレをえらんだら、ムクロはそのヒトをうしなうの?」
「……おそらくは」
「なら、こたえはもうでてるんだよ、きっと。あのね、ムクロがのぞむなら、オレはどんなやくそくもできるよ。なかないこと、いつまでもおもうこと、わすれないこと、かならずまたあうこと、またあえたときにてをつなぐこと、だきしめること、はなさないこと……。どんなことでも、やくそくできるよ」
「綱吉君……」
「だからムクロ。こうかいだけは、しないでね」
「……それは――」
「……ぅ……ぁあっ!」
「白蘭?」
ベッドの軋む音と苦しげな呻き声に振り向けば、彫刻のように眠っていた白蘭が身をよじって苦しんでいた。
「ビャクラン、どうしたのっ?」
綱吉が慌てて駆け寄り、白蘭の顔を覗き込む。白蘭の白い額にはじっとりと汗が滲み、眉は強く寄せられ苦痛に堪えるかのように歯を食いしばっていた。
「ぁっ、うぅっ……や、……!」
みるみるうちに白蘭の呼吸は乱れ、ぜいぜいと嫌な音に変わっていく。
「白蘭……!」
兄の尋常でない様子に骸も焦りを見せ、白蘭の硬く握りしめられた拳を両手で包んだ。小刻みに振動するそれは更なる不安を煽り、骸の表情を歪ませる。こんなこと、いつもとは逆だった。いつもなら、悪夢にうなされ苦しむ骸を白蘭が抱きしめ、大丈夫だよ、傍にいるよ、としきりに囁いてたはずなのに。
「白蘭、白蘭!」
骸は、こういう時にどうすればいいのかわからなかった。それに、混乱する頭を母の言葉が過ぎって仕方ない。
『――あの人は、この子にまで……!』
あの人――あの父と呼ぶのもおこがましい男が、白蘭に何をしたと言うのだろう。白蘭が今苦しんでいるのは、そのせいなのだろうか。
なぜ。なぜ?
「あぁっ、ぅ……! ん、ぅうぁっ!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。僕が傍にいます。だから落ち着いて。大丈夫だから、白蘭……!」
暴れる白蘭をベッドに乗り上げて押さえ、夢の中にまで届くようにと骸は白蘭の耳元で囁いた。白蘭がしてくれたように、優しく、何度も。
「白蘭、白蘭……! 目を開けて。こちらを見て。僕はここにいます。だから白蘭、起きて……!」
白蘭のようにうまくは出来なかったけれど、気付けば白蘭はうっすらと目を開けていた。
「ぅ……? む、くろ、君?」
ぱちぱちと菫色の眼を瞬いて、白蘭の視線が骸に固定される。
「ええ、白蘭。僕はここにいますよ。大丈夫、傍にいます。大丈夫……」
ゆらゆらと焦点も定まらないままに白蘭は骸の頬に手を添えた。
「ど、したの? 珍しい、ね……?」
頬を引き攣らせながらもにんまりと微笑む様は小憎らしくて、いつもの白蘭そのものだった。でも、今の骸には強がりにしか見えなかった。
「変なのは、あなたの方でしょう……!」
まだ意識のはっきりしない白蘭を抱きしめて、骸は白く軽い髪に顔を埋めた。それだけで、欠けていたものが満ちたような安心感が胸を満たしてくれた。
「骸君? 泣いてるの?」
「……まさか。涙なんて人間らしいもの、僕にはありません。――知っているくせに」
「知ってたけど、今疑ってるところ。だって骸君、今にも泣きそうな顔してるよ?」
「……気のせいですよ。寝ぼけてるんじゃないですか」
馬鹿ですね、と白蘭の額を指先で突いて骸は顔を背けた。背けた先には微笑む綱吉がいたけれど、綱吉はひらひらと手を振って静かに部屋を出て行った。その心遣いが綱吉らしくて、骸は小さくありがとう、と呟いた。
「何か言った?」
「いいえ、何も。ねぇ、そんなことより、何の夢を見ていたんですか? あんなにうなされて……」
「……よく、覚えてないよ。でも、忘れたいような夢だったのは確か」
白蘭はそっと微笑んで、骸の頭を撫でた。白蘭の柔らかな手の動きを感じながらも、骸は白蘭の瞳の奥をじっと見つめていた。全てを見透かすかのように。
「じゃあ、これだけは教えて、白蘭。その夢に、あの男はいましたか?」
「え? いなかったよ?」
平然と答える白蘭に微笑を返す骸の脳裏を、氷のような何かが走り抜けた。
「……そうですか」
……いたんですね。
「どうかしたの、骸君?」
「いえ、なんでもありませんよ」
強く抱き合い、互いが傍にいる幸せを確かめながらも、骸の心は冷たい炎に彩られていた。
『幼き〜』の方は少し終わりが見えてきました。
たぶんあと3〜5話くらい……で収まるといいなぁ、的な。
2008.10.24
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