16.綱吉




 十代目。ドン・ボンゴレ。ボンゴレ・デーチモ。ゴッド・ファーザー。
 イタリアにそぐわない『綱吉』という名はあっさりと捨てられ、代わりに任侠映画にでも出てきそうな呼称が綱吉の呼び名になっていた。
 綱吉が骸と別れてから、もう一年が経つ。
 威厳を押し付けるような外套の重さにも、ふかふかの黒い椅子の感触にも慣れ、最初は違和感ばかりだった羽根ペンも、今では安いボールペンと同じくらい綱吉の手に馴染んでいた。その上、英語なんてからっきしだったのに、今ではアルファベットの筆記体を連ねて名前を書く日々が当たり前になっている。しかし英会話のスキルは相変わらずボロボロだ。祖父の意向で幼い頃に習っていたイタリア語ならば多少話すことが出来るが、読み書きはまだまだ危うい。そしてそれを補うだけの知識も経験もない。巨大組織を束ねる位にいる者としては、足りないことだらけだった。
「ふぅ……」
 それでも今、綱吉はすっかり慣れ親しんだボスの椅子に座り、文字通り羽根のように軽い羽根ペンでもって書類に署名をする生活をしていた。毎日毎日、自分よりも二回りも三回りも年かさの大人たちに頭を下げられながら、ボンゴレ十代目として、重い署名を繰り返す日々だ。ため息をつかずにはいられない。
「十代目、次はこちらを。特に問題はございませんので、署名だけで結構です」
 そんな綱吉に無表情で新しい書類を差し出すのは、九代目が遺した優秀な補佐官――という名の監視役兼教育係のジョルジョだった。五十代半ばも過ぎたくらいだろうか、かっちりとしたスーツに身を包み、白髪混じりの髪を撫で付け、いかにも重鎮といった雰囲気を醸し出している。彼は英語やフランス語の通訳、およびイタリア語の読解役まで兼ねているため、朝昼晩と常に綱吉に張り付いていて、綱吉にとっては少なからず息苦しさを増大させる厄介な存在だった。こればかりは一年経った今でも全く慣れることはなかった。
 一年が、経っても。
「……うん」
 いくらか重い声を返して、綱吉は渡された書類にペン先を当てる。そのまま慣れた調子ですらすらとアルファベットを繋げたサインをすれば、それは妙な説得力を持って紙面を埋める。
(カッコよく書けばそれなりに見える、か。上っ面だけな感じは、今の俺をしっかりと表現出来てるよ……)
 気取ったサインを見下ろして、綱吉はまた零れそうになるため息を飲み込んだ。まったくもって合わないのだ、この生活は。なんとかそれらしく見せているけれど、綱吉はここへ来てから一度も安らぎを得ていなかった。
(帰りたいな……。二人の、ところへ)
 綱吉の脳裏に、黒と白の相反する髪色がよぎる。懐かしいと思えるほどに離れてしまった二人だ。白蘭と骸の、双子兄弟。彼らを思い出すと、必ず良い思い出と悪い思い出とがごちゃごちゃになって浮かぶが、それらすべてをひっくるめて、綱吉の日常だった。それこそが、綱吉のあるべき日常だったのだ。今の方がおかしいんだ、と綱吉は思う。
 一年前、九代目の死に目に立ち会った後、綱吉はすぐにでも日本に帰るつもりでいた。そもそも、素直にイタリアへ行ったのだって、そういう約束が前提としてあったからだった。綱吉には九代目のあとを継ぐ気はなかったし、マフィアに対する嫌悪すら抱いていたのだ。葬儀の後すぐに空港へ向かう綱吉の姿も、当然のもののはずだった。しかしそれは、半ば拉致めいた手法で呆気なく中止されることになった。見慣れない礼服の男たちに薬を嗅がされ、どれだけの時間が経ったのか、気付けば声を出せない状態でパーティーへと連れられていた。派手な衣装の大人に囲まれ、でーちも、でーちも、と当時の綱吉には理解不能な単語を浴びせられ、ただ雰囲気に呑まれるしかなかった。そしてそれが十代目就任のお披露目会だと知ったのは、それからすぐのことだった。
(俺、なにしてんだろ。こんなとこに座って、ただサインして、ただの言いなりで。なにやってるんだよ、本当……)
 綱吉の記憶は日本を出た日にまでさかのぼっていた。あの日、深い意味もなく、ただ当然のように置き手紙を書いた。すぐに帰る、だなんて。それが結果として嘘になってしまったことを、綱吉は今日に致るまでずっと悔やんでいた。一体いつになったら帰れるのだろう、いつになったら解放されるのだろう。綱吉は今まで何度となく駄々をこね、怒鳴りつけ、果ては脱走まで謀ってみたこともあった。そしてその度に捕縛され軟禁され長時間の説教をされれば、さすがに諦めも滲む。綱吉が無理矢理に執務室に繋がれた当初、毎日のように「世代交代の混乱が収まれば、すぐにでも帰して差し上げますからね」なんて猫撫で声で言われていた頃が懐かしかった。ボンゴレ内部は未だに慌ただしく、いい大人たちが飽きもせず抗争だか喧嘩だかに明け暮れ、その処理に綱吉も明け暮れ、終わりは一向に見えやしない。いや、最初から終わりなんてなかったのかもしれないとすら思うようになった。
 考え始めてしまうと、もう手は動かなかった。
「いかがいたしましたか、十代目」
 ジョルジョが形だけ心配そうに尋ねてくる。でも内心「ああ、またか……」と思っているのがなんとなく伝わってきた。
(ああそうだよ、まただよ。悪いね)
 何をするにも骸との約束が引っ掛かり、綱吉は集中することが出来なかった。
「……日本に、帰りたいんだよ。一日だけでもいいから、とにかく一度日本へ帰りたいんだ。会いたい人がいるんだよ。俺はただ、その人と会って話がしたいだけなんだ」
 深いため息を込めたような言葉だった。疲れ果てたような、透明感のない声。かつて骸や白蘭の名を呼んだ声とは似ても似つかなくて、綱吉は胸の中に薄暗いものが差すのを感じた。
「……それは、六道骸のことでしょうか」ジョルジョが遠慮がちに返す。
 反応があるとは思ってもいなかったので、綱吉は少し意外そうにジョルジョの方を向く。
「そうだよ。何度も何度も言っているけど、もう一年も待たせてるんだよ。俺は骸に会いに行かないといけない。骸が心配なんだ。骸は自分を大切に出来ないやつだから……。お願いだよ、ジョルジョ。俺、帰りたいんだ!」
 それは思いの外悲愴な声で、さすがのジョルジョも少し動揺したようだ。いつもなら間髪入れずに却下するのに、今回ばかりは僅かな迷いが見える。
 逆に綱吉の中には希望が生まれていた。ひょっとしたら、今度こそ日本に帰れるかもしれない――そう思ったのもつかの間。
「いつかは言わねばなるまいと思っておりましたが、今日まで言えずにおりましたことがございます」ジョルジョは固い表情で言った。
「……?」
 彼のそんな顔を見るのは初めてで、綱吉は少なからず嫌な予感を覚えた。頭の中で気味の悪い鳥が鳴く感覚。
 ジョルジョは深く息を吸い、告げる。

「六道骸は、あなた様がイタリアへ旅立った翌日から行方不明なのです」

 綱吉はその発言を何度も胸のうちで反芻した上で、それでも首を傾げるに至った。
「……はあ?」
 この瞬間、綱吉はこの一年間一度もしなかっただろう間の抜けた表情をしていた。だらし無く半開きになった口は歪んだ笑みを作り、中途半端ながら嘲笑っているようにも見える。
「なに、変なこと言ってるの。意味、わかんない」
 いや、実際、綱吉はジョルジョを嘲笑っていた。何を馬鹿なことを、と理解を放棄して拒絶する。そうでもしなければ、これまで何度となく馳せた骸への想いが道を失ってしまう。それはあまりにも恐ろしい。
 しかしジョルジョは事務的な口調を崩さず続ける。
「残念ながら、事実です。旧沢田邸の処理に向かわせた部下の報告では、六道骸はドン・ミルフィオーレ――白蘭により首と手を切断され、どちらもそのまま持ち去られたとのこと。胴体や残りの部位はその場に残されておりましたが、検死にかけたところで無意味なことはあなたもご存知でしょう。白蘭の真意もまた不明です」
「白蘭が……骸を……?」
 ジョルジョの言葉は徐々にリアリティーを伴って耳に入ってきた。白蘭が骸の首を持ち去る意味なら、綱吉には想像がつく。骸の本体は紅色の右目だ。身体を失っても、右目さえあれば『骸』という魂は存続出来る。意味ならばあるのだ。実際に行われる可能性は高い。
 けれど、事実として完全に受け入れるためには、引っ掛かる部分があり過ぎるとも思えた。ひとつは、いくら骸に痛覚がないとは言え、白蘭が骸を傷付けるだろうかということだ。白蘭が骸を想う気持ちはあまりに強い。狂気めいていると言ってもいい。そんな白蘭が骸の首を切断するなど、よほどのことがない限り考えられない。それに、もうひとつ。何かしらの決意を持って首を持ち帰るまではなんとか理解出来るけれど、果たして手には何の意味があるのだろうか。
(わからない。本当なの、白蘭? なんで、白蘭……)
 白蘭のことは、わからないことが多い。以前盗み聞いた話によれば、一年前綱吉が日本を離れて以来、ミルフィオーレ・ファミリーの動向は霧に包まれたように判然としないらしい。急速に伸ばしていた進攻の手は突如消え、社交の場にも一切現れなくなったのだという。綱吉の実感としても、ミルフィオーレという名前すら、たった今ジョルジョの口から放たれたのが久しく感じられたくらいだ。かといって、ミルフィオーレ・ファミリーが解散したなどと噂する者は綱吉の知る限りいなかった。誰もがこの一年間の静けさを不気味な沈黙として感じ取っていたのだ。
 マフィアの玉座に座る綱吉とて、それに不安を感じずにはいられない。
「……ジョルジョ。俺、やっぱり日本に戻らないといけないよ。水面下で何かが起きてるんだ。そしてその中心には、きっと白蘭と……たぶん、骸がいる。俺が行かないとダメなんだ」
「何をおっしゃいますか! あなたはもう十代目、偉大なるドン・ボンゴレなのですよ。何度も申し上げたでしょう。世代交代から間もない今は、ボンゴレ内部は不安定です。あなたはボンゴレ以下数千名にも及ぶ同胞を見殺しになさるおつもりで? それだけではない。今ボンゴレが崩れれば、同盟ファミリーも混迷に見舞われるでしょう。マフィア界全体の窮地とも成り得る。数千数万の未来とたかが死体ひとつの行方など、比べるまでもない。ミルフィオーレの動きが読めない今、大局を見る目が必要なのです。ボスが本部を離れるなど、断じて許されませぬ。いい加減、わがままを言うのはおやめなさい!」
 返される冷徹な言葉は、綱吉のよく知るものだった。耳にたこが出来る、とは実感のわかない慣用句であったが、今なら簡単に理解出来た。
 綱吉は聞き飽きた台詞を種火として長く溜め込んだ怒りを燻らせ、立ち上がった。
「そんなことを言っている場合じゃない! ジョルジョがボンゴレのことを思って骸のことを黙っていたのはわかるよ。それを責めたりもしない。でも、これはわがままとかそんな問題、じゃ――……!?」
 キン、と甲高い金属音のような何かが綱吉の脳裏を過ぎった。
(これは……っ!?)
 糸に引かれるように視線を巡らせた先――窓の向こう、遠く遠くにぽつりと白い点が見える。それは僅かに揺れているようだ。
 いや、違う。
(手……?)
 白い点に見えたそれは、よくよく見れば手を振る人間の姿だった。黒い服を着ているのか、首と手だけが白くはっきりと見える。そしてそれ以上に目を引くのは、白い、髪。
(白、蘭……!?)
 綱吉には見間違えようもなかった。明らかに綱吉に向けて手を振っている彼は、これだけ離れていても笑顔だとわかる。
「どうかされましたか、十代目?」
 不自然に言葉を途切らせた綱吉を不審に思い、ジョルジョが眉を寄せて尋ねる。彼もまた綱吉の見つめる先へと視線をやるが、首を傾げてすぐに綱吉へ視線を戻した。不思議なことに、ジョルジョには白蘭の姿は見えていないようだ。
(そうか。俺だけに、用があるんだね)
 なら、と綱吉はジョルジョに向き直った。
「ごめん、なんでもないよ、ジョルジョ。ただ……、少し一人にしてほしい。ちょっと思い出しちゃって、涙がね……」
「まったく。そのような情けないことでは――」
「だから、見ないでほしいって言ってるんだよ。なかったことにしてほしい。……大泣きしそうな予感がするからさ。ごめん。一人に、して」
「そのようなお言葉を先々月あたりにもお聞きした気がいたしますね。私の記憶では、なかなか愉快な脱走劇を演じたはずですが?」
「う……」
 鋭い指摘に綱吉は言葉を詰まらせた。これだから人を騙すのは苦手なんだ、と口には出さずに悪態をつく。けれど今回は、今回ばかりは事情が違う。諦めるわけにはいかない。
「大丈夫だよ、絶対に逃げない。そりゃ夜風に当たるくらいはするけど、ボンゴレの敷地からは出ないよ。大体、脱走防止用のセンサー類の手強さなら、さすがにもう身に染みてる。それに、この際だから言うけど、俺の身体に発信機が埋め込まれてることも知ってるよ。俺は逃げないし、逃げられない。そうだろ?」
 事実を並べただけだが、それだけに綱吉の言葉には強い説得力があった。綱吉が発信機のことを知っているとは想像もしていなかったジョルジョからすれば、尚更だ。
「……わかりました」
 ジョルジョは深く頷いた。声には渋みがあったが、了承してしまえば後はあっさりとしたもので、彼は無機質に頭を下げると足早に執務室を出ていった。振り返ることもなく、あとは淡々と自分のなすべきことをなすのだろう。
(……うまくいった、のかな?)
 ふ、と安堵の息をついて、綱吉はバルコニーに出た。夜風は乾いていて、さらさらと額を撫でる。
 綱吉は白く塗られたアンティーク調の手すりに手を置き、遠くを眺めた。ほんの少しだけ距離の近付いた白い人影は、相変わらず陽気に手を振ってくる。思わず手を振り返したくなるくらいだが、中庭にはまだ見張りがいるため、怪しまれるようなことは安易に出来なかった。
(ごめんね、ちょっと待ってて白蘭)
 綱吉は少しの間白蘭の姿を眺める。その間白蘭はずっと手を振り続けている。
(ご機嫌なのかな、白蘭。そんなに笑ってるの、初めてだよね)
 白蘭との最後の会話は、白蘭と綱吉の関係を劇的に変えるほどのものではなかった。互いの本音に少しだけ近づけただけの、たわいない効果しかなかった。だから、綱吉には白蘭が自分をどう思っているのかなど予想も出来ない。
 自然、綱吉の顔は下向く。
「あ」
 中庭にいた黒服の見張り達が姿を消していた。おそらくジョルジョの命令だろう。
 綱吉はくるりと踵を返すと、室内に戻り、更にはジョルジョが出ていったのと同じように廊下へ出る。すると、赤い絨毯の敷き詰められた広い廊下には人の気配がなく、しんと静まっていた。ジョルジョの気遣いだろう。もしくは、絶対に脱走されないという自信の現れか。
 綱吉は迷いなく足を踏み出し、正当なルートで誰にも会うことなく中庭へと向かった。














 手入れの行き届いた中庭は、やはりどこまでも静かだった。虫の音が僅かにあるが、およそ人の発する音は何もない。有能なジョルジョに少しの感謝を捧げ、綱吉はわざとゆっくりと、散歩をするかのように歩きだした。
(しんみりと。出来るだけしんみりと、泣いてる感じで。しんみりしんみり……)
 呪文のように念じながら、綱吉はふらふらと歩く。たまに真ん丸の月を見上げてみたりもして、若干ぎくしゃくとした芝居を打つ。窓からジョルジョや他の人間が監視している可能性があるからだ。せめて屋敷から見えないところまでは、涙をこらえて月夜の散歩とたれこむ十代目を演じなければならない。馬鹿らしいと思いながらも、綱吉は進む。白い人影は在りし日の鮮明な面影となって近付いていた。
「白蘭……」
 そして、ボンゴレの敷地の端、巨大な格子状の裏門のすぐそばで、綱吉は見知った顔に苦笑気味の顔を突き合わせて立ち止まる。静かな空気が流れていた。深紅を煮詰めたような綱吉の外套は、風にそよぐこともなくしんとしている。白蘭の身体を闇に隠す漆黒のロングコートも、しんと静まっている。
 白蘭はいつの頃からか手を振るのをやめており、ただニコニコと笑っていた。綱吉に手の届く距離で。
「…………」
「…………」
 少しの間見つめ合って、綱吉は深い呼吸をして気分を落ち着けた。第一声を決めて、ようやく口を開く――と、タイミングを合わせたかのように白蘭が右手をサッと上げた。

「やっほー!」

 ……がくり。
 真剣な態度で向き合おうとしていた綱吉は、かなりの落差で肩を落とした。コントのようだ。
「あ、あのさぁ! ここまで来るのにすごい緊張したのに、いきなりそれなの!?」
「いや、だってツナ君変な動きしてたしさ、ギャグか何かかと思って、今日は最初から愉快な雰囲気でいいのかな〜って」
「ギャグじゃないよ!! ていうか、ここまで来るの大変なんだか、ら――とと、マズイ。盗聴器が……」
 綱吉は急に声を抑えて目を泳がせた。ここはまだボンゴレの敷地内だ。いくら端の方とはいえ、そういった機器がある可能性は高い。
 しかし白蘭は飄々としていた。
「ああ、大丈夫だよ。カメラとマイクはちょっといじってあるから心配ない。骸君にも協力してもらったしね。僕が来てることもボンゴレの連中は気付いてなかったでしょ? まあ、それでもここまでが侵入出来る限界だから、あんまり威張れないんだけど」
「骸……、そうだ、骸はどうしてるの!? 白蘭が骸の首と手を持っていったって聞いて、なにがなんだかわかんなくて……!」
「ん? ああ、んーとねぇ……」
 白蘭は詰め寄る綱吉に困ったように頬を掻き、少し考えてから再度口を開く。軽い印象のある唇は、今は少し重そうだ。
「別に、大した話じゃないんだよ。ほら、骸君は意地っ張りだからさ、ああでもしないとあそこから離れてくれなくて」
 あそこ、と言い指したのは、かつての綱吉の部屋のことだろうか。綱吉は白蘭の語る骸の行動の意味に思いを馳せ、じわりと苦いものを感じた。
「それって、骸は、ひょっとして……」
「いや、その……うん、もう終わった話だから、蒸し返さないでくれると嬉しいな。骸君、今はちゃんと元気に……ってのも変だけど、無事だし。あ、そうだった、僕、今日はそのあたりのもやもやを解決しに来たんだよね〜」
「は?」
 突然ころりと態度を変えた白蘭に、綱吉は逆にもやもやとしてしまう。骸の真意はなんだったのか。予想はつくが、はぐらかされたことで綱吉の中に宿った罪悪感は曖昧なまま、ただじっとりと重くのしかかることになってしまった。
「待ってよ、白蘭! 骸は、さ。俺との約束を、守ろうとしてくれたんじゃないの? だとしたら、俺、骸に酷いことを……!」
「ううん。もういいんだよ、ツナ君。そういうのは、もういいの」
 白蘭の声には、諦観ともつかない不思議な静けさがあった。かつての白蘭ならば、骸の心を傷付けたと綱吉をなぶるだろうに、そんな気配は微塵もない。
(白蘭……?)
 最初から、それこそ執務室の窓から白蘭を見た時から感じていた違和感が、強く薫った。別人のよう――とまでは言わないが、穏やかに笑う白蘭は、綱吉の知る白蘭とは距離がある。
「不思議そうな顔、してるね」
「えっ、あ……」
 言い当てられて、綱吉はごくりと生唾を呑んだ。白蘭に対して強い恐怖を感じた経験がある綱吉にとって、白蘭が優位に立つことはどうしても恐ろしく感じてしまう。少しだけ青色を足した顔を逸らして、綱吉は「そ、そうかな?」と流す。
 けれど白蘭の上機嫌な顔は変わらなかった。
「ふふっ、骸君さ、今ウチにいるんだ。相変わらずマフィアは嫌ってるけど、でも居てくれてる。そういうの、久しぶりだからさ……。なんだろうね、前よりも毎日が輝いてるって言うのかな」
 どこか照れを滲ませた声に、綱吉は驚かざるを得ない。最後に会話した時の骸は、まだ白蘭のことを許してはいないようだったから。白蘭と骸が望んで共にいるのであれば綱吉としても喜ばしい限りだが、なかなか想像がつかないというのも正直なところだった。
「……そっ、か。そっか!」
 曖昧な部分を残しつつも、綱吉は顔をほころばせた。少なくとも、ここにいる白蘭は純粋に笑っているのだ。ならば骸も、きっと――。
 甘い連想と知りつつも、綱吉は微笑を崩さない。白蘭の笑顔には、それだけの幸福感が満ちていた。
「うんうん! 僕ねぇ、やっぱり骸君がそばに居てくれないとダメだったんだ。骸君さえ居てくれれば、他には何もいらないよ」
 晴れやかに言い切って、白蘭はにこにこ笑う。それが本当に嬉しそうで、綱吉は少し眩しく思った。
「さてと、話がそれてたね。本題に戻るけど、ちょっとツナ君にお願いがあってさ」
「お願い?」
「うん。僕をさ、思いっきり殴ってくれない?」
 ぽろりと軽い調子で告げられて、綱吉は微笑を固めた。
「………………!? へ? はぁ!? 今、なんて言った!?」
 数秒遅れる形で目を見開き、綱吉は白蘭に詰め寄る。
「目ぇデカイね〜、ツナ君。それはともかくとして。えと、言葉通りだよ。僕のこと、ちょっと殴ってほしいの」
「はああああ?」
「おっ、リアクションいいね〜」
「いや、だって……って、そうじゃなくて! えと、なに? 何の意味があるのか全然わかんないんだけど」
 綱吉は困惑もあらわに目をあちこちにやっている。マフィアという非日常が日常になっている綱吉だが、殴る蹴るといった暴力的な面には親しくないのだ。いきなり殴れ、と言われても戸惑うばかりだった。
「ハハ、いーからいーから! 手加減なんていらないよ? ほら、なんだかんだでツナ君にはいろいろと悪いことしちゃったしさ、わだかまりとか残したくないし。だから、バキッと一発! それですっきりチャラにしてほしいんだよ」
 楽しそう、としか言い表せない表情で白蘭は告げる。けれど綱吉の方は、そんなに気楽に言っていいことではないような気がしていた。それに、どうにもそういった解決方法には抵抗がある。
「で、でも……」どこが悪いとも言えずに綱吉は渋る。
「あー……一発くらいじゃ晴れませんって? んじゃ二発? 三発? 何発でもいいよ? 僕、タフだし。ケガしてもすぐ治るし」
「そ、そういうことじゃないよ! ただ、その……、そんなことしなくたって、いいから……」
「そう? うーん……」
 はっきりとしない物言いながら嫌がっている綱吉に困ったのか、白蘭は自身の顎に指をあてて考える素振りをした。
(あ……)
 少し、骸と似ているような気がした。
「んー、でもさ――」白蘭はすぐに元のように指を離した。
「ツナ君は良くても、僕の気持ちが収まらないっていうか、どうにもすっきりしないんだよね。そりゃ、あんまりいい方法と言えないのはわかってるけどさ、僕、そのテのことに関してはホント不器用だから……」
「え、ええ?」
「本人がやれって言ってるんだし、やっちゃってよ。ね? 僕のためだと思って、さ」
 おかしな方向に話が進んでいると気付いていたが、元々押しの弱い綱吉は強く断ることが出来なかった。お願いお願い、と繰り返されれば徐々にかわす言葉も尽き始める。
「……わ、わかった、よ。一発だけ。顎は狙わない」
「ははっ、よろしく!」
 妙に乗りのいい様子で白蘭は左の頬を差し出した。身長差があることを考慮してか、少し腰を屈めた状態で。
「い、いくよ? ホントにやっちゃうよ?」
「うんうん、どーぞ!」
 白蘭が言い切った直後、歯を食いしばるようなギチリという音がした。
(ああ、なんでこんなことに……!)
 少なからず嘆く気持ちを胸に、綱吉は拳を握り、振りかぶる。

 ――バギッ。
 
「ぐっ…――!」
「いッ……!」

 悲鳴らしき呻きが重なった。
 白蘭は左頬を押さえ、綱吉は白蘭を殴った拳を懸命に撫でさすっていた。
「あー、イタイイタイイタイ! これっ、殴った俺もかなり痛いんですけど!」
「あはははは! いや、僕も一応痛いからね、コレ」
 一応って何だ、と綱吉は悪態をつく。身体の出来がそもそも違うことを忘れていた。
「まあ、とにかく。ツナ君、これでチャラにしてくれる?」
「ああもうっ……うー……チャラには、出来ないけど。でも、許すよ。白蘭は、友達だから」
 ふわ、と白蘭は嬉しそうに笑う。少し照れ臭そうだ。
「ふふ、ありがと。じゃあそういうわけで――」
 瞬間、風を切る音がして、綱吉は直感に突き動かされるように歯を食いしばった。

 ――ゴギィッ。 

「ッッ……!!」
 予想していたようなしていなかったような。白蘭の拳はかなりの威力をもって綱吉の頬を打ち抜いていた。
「おお、ホントだ! 殴った方も痛いね、コレ」白蘭は飄々と笑う。自身の拳を撫でながら。
「うあー……ちょっと、予感めいたものはあったけどさぁ……」
 綱吉は苦笑を浮かべるのも辛そうな様子で、くらくらする頭を手で支えていた。俯いているのでわかりづらいが、実は涙目になっている。実際、とても、かなり、本当に――痛かったのだ。
「ははっ、すっきりした〜! うんうん、実に晴れやかだね!」
「口の中、血の味する……」
「いやほら、それは愛の重みってやつだよ。顔の原形残ってるだけマシでしょ?」
 恐ろしいことをさっくりと言われたが、綱吉は少し考えて頷く。
「……そうだね、マシだね、そりゃ。でもやっぱり痛いよ……」
「ふふ、お互い様。イーブンだよ。それに、さ」
 その時、綱吉は白蘭の菫色の瞳に僅かな揺らぎを見た。寂しそうで、悲しそうで、嬉しそうで、幸せそうだった。今の感情を逃さないよう、全部をいっしょくたにして瞳に閉ざすような、わけのわからない動きだ。動揺ではないけれど、その瞳は確かに揺れていた。
「びゃく――」
 咄嗟に声をかけようとした綱吉を、白蘭の腕が囲む。
(白蘭……?)
 綱吉は、優しく、抱かれていた。

「これで、僕の可愛い弟を散々苦しませたこと、許してあげる」

 囁くように、穏やかな声が告げる。白蘭の腕にはぎゅっと力が篭り、凹凸の少ない胸と胸とがぴったりと重なり合った。
 驚いた綱吉が疑問を口にしようとした、その時。綱吉の体内、おそらくは胸のあたりに違和感が走る。
「っ!?」
 直後、けたたましいサイレンが頭上を飛び交った。暗かった辺り一帯が一瞬のうちに真昼の明かりを取り戻し、綱吉の居場所を告げるかのようにまばゆいライトが点滅する。あまりの光量に、その発生源がどこにあるのかも特定出来ない。
 ただただ、綱吉の居場所を告げるだけの、それ。もうじき、ここに人が来るだろう。
「びゃ、白蘭!」
「わかってるよ。でももうちょっとだけ、このままで」
 焦る綱吉とは裏腹に、白蘭の声はどこまでも穏やかなままだった。屋敷の方角は徐々に騒がしさを増し、人の足音や犬の吠える声が聞こえる。けれど、白蘭は綱吉を抱きしめ続ける。
「白蘭ダメだ、早く逃げないと……! ねえ、白蘭!!」
 綱吉は腕を突っ張るようにして白蘭を突き放そうとする。けれど白蘭は微動だにしない。
「白蘭! 白蘭ってば! お願いだから、早く――」

「今、君は幸せですか?」

「……!?」
 ぽつりと零れた問いに、綱吉は愕然とした。また、白蘭が骸に重なって見えた。いや、違う。その問いは、骸の影を伴って聞こえた。骸に訊かれているのだ――きっと。
「答えて、ツナ君。とても、大事なことだから」
 人の怒号が近づいていた。犬の喚く声が近づいていた。辺りは相変わらずまばゆく、無遠慮なサイレンはうるさい。けれど今この瞬間、綱吉には白蘭の声しか届いていなかった。

「幸せじゃ、ない」

 絞り出すように出た言葉は震えていた。綱吉はもう一度繰り返す。
「幸せなんかじゃ、ないよ。全然、幸せなんかじゃ……、ないよぉ……!」
 全身で震える綱吉の背をぽんぽんと叩いて、白蘭は少しだけ身体を離した。そして俯く綱吉の顎を持ち上げ、目尻をさらりと舌でなぞる。
「ふふ。涙は、優しい味がするね。ツナ君はぽかぽかあったかくて、夜風は冷たい。殴られればとっても痛いし、殴っても痛い」
 確かめるように、心に浸透させるように呟く白蘭は、にっこりと笑って綱吉の頭を撫でてやった。猫を可愛がるような仕種だった。
「当たり前だと思っていたことは、本当は当たり前じゃないんだね。君には君の、当たり前の幸せがあっていいのに。僕らの幸せとは違う、普通の、幸せが」
「……?」
 さら、さら。白蘭の手は変わらず動く。あたりには人の気配が濃厚になって、ついには人影が見えた。
「十代目!!」
 ジョルジョを始めとするボンゴレ・ファミリーの面々がぐるりと二人を囲む。低く唸る犬たちも今にも飛びかかりそうな体勢でその内側に入った。
 綱吉は悲鳴のような甲高い声を喉の奥で上げた。白蘭の逃げ道がない。けれど白蘭はあくまでも白蘭のままだった。ゆったりとした動作で綱吉を放し、微笑む。道化の仮面などなかった。

「もう帰るね。会えて嬉しかった」

 平静と言ってのけて、白蘭は背を向ける。
「びゃく――」
「貴様、ドン・ミルフィオーレ! 逃すと思うか!」
 綱吉の声を遮って、興奮したジョルジョの怒鳴り声が飛ぶ。誰もが皆、銃を構えていた。銃口は真っ直ぐに白蘭の左胸へ向けて固定され、指の筋肉が痙攣しただけでも白蘭は死ぬだろう。
「やめてよジョルジョ! 白蘭は友達だ!!」
「お黙りなさい! 禍根は断たねばなりませぬ!」
 白蘭とジョルジョの間に両手を広げた綱吉が立つが、ジョルジョが銃口を少しずらすだけで無意味となる。ジョルジョの鋭い視線は綱吉を素通りして白蘭を射抜き、殺意が肌を痛ませた。
 それでも白蘭は表情を崩さない。
「大丈夫、またすぐに会えるよ」
 綱吉を安心させるように優しく囁く。
「白蘭……――!?」
 振り向いた綱吉は、息を呑んだ。

「その時はまた、二人で会いに行きますね。――綱吉君」

 くぐもった声。コートの裾に隠れるようにして、白蘭の足下からボールのような物が覗いていた。綺麗に微笑む、顔。首。ガラスケースにしまわれたそれは、懐かしくて、愛おしくて。ルビーのような美しい瞳を、持っていた。
「むくっ――」


「撃てェ!!」


 銃声と硝煙とがすべてを呑み込んだ。
 その中で、綱吉はイタズラっぽく笑い合う二人が霧に掻き消えるのを見た。


























2009.9.21




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