13.最果て
次の日、寝汚い自覚のあるはずの綱吉はいつもより一時間も早く起き、台所に向かっていた。
「あら、ツっくん? どうしたの、やけに早いわね」
綱吉の母、奈々は綱吉を見るなりきょとんとしていた。当然の反応だよなぁ、と思いつつも、綱吉は憮然とした表情だ。
「俺だって、たまには早起きくらいするよ。それよりさ、あの……弁当の作り方……教えてくれないかな」
奈々は『きょとん』を超えて一瞬『ぎょっ』としたようだが、すぐに嬉しそうに微笑んで頷いた。
いわく、
「春が来たのね、ツっくん!」
……とのこと。
冗談として笑い飛ばすことも違うと吠えることも出来ず、綱吉は曖昧に苦笑するしかなかった。
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時、骸は当たり前のように綱吉を屋上へ誘った。けれどいつもと違う部分が一点。骸に引かれる綱吉の手には、常にはない若草色の包みと小さなお茶のペットボトルとがしっかりぶら下がっていたのだ。
屋上へ着くと、骸は少し照れたように微笑んで啄むだけの口づけを綱吉の頬に送った。貯水タンクの影に隠れるその場所には生々しい白い染みが点々と染み付いていたけれど、それでも綱吉の方が恥ずかしくなるような、妙な初々しさがあった。
「それ。僕のために頑張ってくれたんですよね?」
骸の声は、綱吉の腹に何かちりちりした感覚をもたらした。それはその質問に篭められた別の意図の存在を伝えているようで、こくりと唾を飲み込む。
「……骸の、ためだよ。骸だけのため、だよ」
「本当に?」
「うん、本当」
よどみなく告げれば、骸はとても嬉しそうに綱吉の身体を抱き寄せた。骸の痩せ細った胸板を感じながら、綱吉は正解を言い当てた安心感と、嘘ではないものの真実でもない言葉を口にした罪悪感とに苛まれていた。それでも綱吉には他に方法が思い浮かばなかった。
「ね、食べさせてくれますか?」
「……うん」
綱吉がこくりと頷けば、骸は自分から身体を離し、包みの結び目に指をかける。上機嫌なその仕種はどこか幼く、遠い日を思わせた。今なら過去のあるべき関係に戻れるのではないか。綱吉にそんな儚い錯覚を起こさせるほどに。
若草色の包みの中には二段になっている黄色い弁当箱と、同色の箸が収まっていた。どちらも柄こそないものの、色合いといい丸みを帯びた形といい、少し対象年齢が低いように見える。見た目のままに食の細い綱吉は小さい弁当箱でないと食べ切れず、その結果沢田家にはかわいらしい弁当箱しかなかったのだ。
「ごめん、ちょっと少女趣味だったかな?」
「そんなの、気にしませんよ。大事なのは中身ですから」
骸はそう言って躊躇なく蓋を開けた。弁当の上段にはおかずが詰まっていた。色とりどりと言えるほどの種類はないが、玉子焼きやミートボールなど、王道にして子供に人気のあるおかずが並んでいる。下段はごま塩の薄くかかった白米と、ちょっとした漬物が詰まっていた。いつも綱吉が食べている弁当を見ていた骸からすれば、それは一言『沢田家の弁当』と表現すれば事足りる。
「クフフ、実にあなたらしいですね」
「ど、どういう意味だよっ」
「そのまんまですよ。はい、綱吉君」
なんだかどさくさに紛れて箸を渡され、綱吉は意を決する間もなくそれを右手に持った。本当は、お弁当を作るだけならまだしも、食べさせてやるなんて『友達』の範疇を出ている行為だとは思っていたけれど。でも骸は本当に嬉しそうだった。暗いところのない、ほっとするような微笑みを浮かべていた。だから、これで良かったと思えた。
「じゃあ、まずは玉子焼きから」
綱吉は玉子焼きを掴み、骸の口の高さにまで持ち上げた。
沢田家の玉子焼きは砂糖派・塩派で分けるなら砂糖派だった。いつも弁当に入っている玉子焼きは四回ほど器用に巻かれ、色も狐色と黄色とのまだらであるのだが、綱吉作のそれは二つ折りが失敗したせいでスクランブルエッグと玉子焼きの境界をふらふらしている不格好な形で、しかもかなり焦げ目がきつい。誰が見ても失敗作と評するだろう出来だった。
「初めて作ったから、あんまりおいしくな――」
おいしくないかもしれない。
そう言おうとして、綱吉は骸の曖昧な視線に気付いた。遠くを見るようなそれに、ようやく失言を自覚する。
「あ、ご、ごめん。と、とりあえず食べてみて?」
些か引き攣った笑みで誤魔化したが、果たしてそれに意味があったのかはわからない。骸は先ほどまでの和やかな空気を少しだけ翳らせて苦笑していた。
「いただきますね、綱吉君」
骸は玉子焼きを頬張り、咀嚼した。骸が物を食べることなど、おそらく片手で数えられるほどしかないのだろう。噛むというよりただ顎を上下に動かしただけのようなぎこちなさだった。何回噛めばいいのかもわからなかったのか、四回ほど噛んだらごくりと飲み込んでしまった。
「あ、骸。一口につき三十回は噛んだ方がいいんだって、昔テレビでやってたよ。面倒だけど、慣れるためにもちゃんと噛んだ方がいいかも」
「それって、口の中がぐちゃぐちゃして気持ち悪くなりませんか」
「え、そう? うーん……じゃあ、一口ごとにお茶を飲んだらどうかな」
緑茶と言えばコレ、と真っ先に上げられるだろうメーカーのペットボトルを差し出して、綱吉は苦笑した。なんだか今までずっと母乳で育って来た赤んぼうに離乳食を教えるような心境だった。
「気持ち悪かったら、これ飲んで。口の中、さっぱりするから」
骸は素直にそれを受け取ったけれど、特に飲みはしなかった。
「ん、じゃあ、次はミートボール食べてみる?」
四つ並んだミートボールのうちのひとつを摘み、これも骸の口元に持っていった。骸は餡の滴るミートボールに一瞬戸惑ったようだが、結局は一口に頬張った。今度は言われた通り何度も何度も噛んでいる。けれど最初のうちはよかったが、十五回も過ぎた頃から明らかに面倒そうな表情を浮かべ始めた。結局律儀に三十回噛んでから飲み込んだものの、すぐにお茶に手を伸ばし、ごくりと口に含んでミートボールの感触を流してしまった。余程気持ちが悪かったらしい。
「人間はこんなことを毎日繰り返すのですか。辛くはありませんか?」
ようやく落ち着いた口から飛び出したのは、そんな言葉だった。
「食べるのが辛くないのかって? えと、病気の時だったり嫌いなものだったりしなければ、それはないと思うけど……」
「なら、好きな物と嫌いな物の差はなんですか? 同じ食物でしょう?」
「えっ、と……それは……」
単純に味が違うと言えればどんなに楽だったか。綱吉はなんと説明すればいいのかわからず、どぎまぎとするばかりだ。
「……忘れてください」
答えが返って来ることはないと判じたのか、骸は緩く頭を振って弁当の続きを促した。
「う、うん。じゃ、じゃあさ、次はひじきの煮付け食べる? 母さんがずっとついててくれたから、きっと他のおかずよりはまともだよ」
「ええ、お願いします」
ひじきの黒に人参の明るい橙色が映えるそれを一口大に摘み、綱吉は律儀に骸へ差し出した。骸はどこか事務的にそれを食べたが、何の反応も返さない。
「え、えと……」
どうにも気まずくて、なんとか場を和ませようと綱吉は口を開く。
「か、母さんがねっ、もっと砂糖足せとか醤油控えろとかいちいちうるさくてさぁ! 結構時間かかったんだよ、こんなんでも。でも最後に味見した時はそれなりの味になっててね、いわゆるおふくろの味? そんなかんじの。どう、おいし、く――っ!」
綱吉は反射的に右手で口を覆った。骸はじっと綱吉を見つめていた。そこに宿る感情がまったく見えなくて、綱吉は思わず後ずさった。
「……綱吉君の方がいい」
ぽつりと聞こえた言葉に、息が詰まる。
「む、骸……っ」
「何を食べても味などしない。せっかく君が作ってくれたのに、感想も言えない……。やっぱり、君がいい。君を食べたい。君なら、きっと甘い」
暗い何かが混じった骸の声に、綱吉はある種の覚悟を決めて身を固くした。けれど、骸はただ綱吉を抱き寄せ、その細い首筋に頬を擦り寄せただけだった。
「ねえ、食べなくてはダメ? 君以外を口にしなくてはダメですか? 君が僕のために何かしてくれるのは嬉しい。本当に、嬉しいんです。でも、生物の真似ごとは疲れる」
「ま、まねごとって……でも……!」
「でも、何? 君が望まなければ、僕はこんな無意味なことはしません。優しい君が僕以外の者を慮るのは仕方のないことだけれど、だからといって全てを許容したわけではないのですよ。僕のことを一番に考えて、綱吉君。何よりも、誰よりも。深く、強く。僕で君の中を満たして。欠落だらけの僕でも、君を満たすことが出来ると教えて……」
「骸……」
声はあまりにも弱々しかった。それは骸の感情の均衡をそのまま表すようで、綱吉は自分の言葉が骸に極端に影響することをよくわかっていた。
出来ることなら、友愛で満たしてやりたかった。けれど骸が求めているのは、もっと色濃くどろりとした強い情なのだ。
(白蘭、俺は……っ)
綱吉は意を決し、ごはんとひじきとをまとめて箸で掴み、自身の口に含んだ。味わう暇もなく素早く咀嚼し、首筋に埋まる骸の頭を少し離させる。
「綱吉君?」
綱吉の行動が理解出来ないのか、骸は探るように綱吉を見つめた。綱吉は口に物が入っているので何か喋るわけにもいかず、仕方なくそのまま骸に口付ける。
「ふ……!?」
驚く骸の唇を舌で割り開き、綱吉は口の中の物を親鳥と雛のように骸に与えた。
「ん……」
ようやく意図を察したのか、骸は口移しで入って来たものをこくりと飲み込み、もっと欲しいと綱吉の口内に舌を這わせた。
「んン……っ、も、ないって!」
元々そう多くを口に含んだわけでもなかったので、舐めとられるのはすぐに唾液ばかりになった。綱吉が骸の肩を押して突き放せば、案外と素直に骸は離れた。
「……綱吉君は感じられる。痺れるようなとろりとした感じ。やっぱり、君がいい。もっと……綱吉君」
骸はおもむろに弁当に指を突っ込み、どれがどれかなども構わず一口分の食料を摘んだ。
「……っ」
それをそっと口元に差し出され、綱吉は今更ながら嫌悪感を感じて固まった。こんなこと、友達はもちろん、恋人でもしないのではないか。仕方がないとはいえ、なんという歪んだ行為をしてしまったのか。骸の瞳に情欲を宿らせたのは、綱吉自身なのだ。
(気持ち、悪い)
僅かに残る後味は嫌な感情ばかりを胸に募らせる。
「綱吉君? ねえ、もっと頂戴。君を僕に味わわせて――」
「……味なんて、どうせわかんないじゃん」
無意識にそう言ってしまってから、今までの比ではないほどの嫌悪が綱吉の頭を浸した。
(今、俺、最低なことを……っ)
「ごめん骸! ちょっと、あの、口が滑った。本心じゃないんだ! ごめん! 本当に、ごめん……!」
綱吉は慌てて謝りつつ本能に突き動かされて立ち上がり、骸から距離をとろうとした。だがどこか虚ろに微笑んで綱吉の手首を捕らえる骸は、それを許さない。
「あのね、綱吉君。僕は君の望みを叶えたいんです。君に嫌われたくないから。君に嫌われたら、僕は壊れてしまうから。だからね、君がこの身体を生かしたいと思うなら、僕をきちんと餌付けして? 綱吉君がデザートに付いてくるなら、僕はぐちゃぐちゃした感触もじりじりする感情も全部我慢して、ちゃんと食べてあげますよ。この忌まわしい身体も、ちゃぁんと生かしておいてあげます。――どうするんですか?」
「……そ、れは……!」
綱吉は意味をもって答えることも出来ず、ただ荒い呼吸と呻くのとを繰り返した。なんのことはない、表層だけ見れば習慣となりつつあった行為にちょっとしたプラスがつくだけなのだ。けれど、その根本にある綱吉の意思が是か否かで、意味が大きく変わる。綱吉は幾度も骸に身体を開き、少しずつ少しずつ行為に慣れ始めていた。認めたくはなくとも、手首に感じる骸の手にはもう嫌悪を抱かなくなっていた。意識を浸蝕されているような危機感ばかりがじわじわと綱吉を追い詰めていた。
「綱吉君」
骸の手は決して強引に綱吉を引き寄せることはしなかった。綱吉が自ら堕ちるのを、ただ待っていた。
「骸……っ」
ここで頷けば、素直に骸の望むままに振る舞えば、平穏を取り戻せるのではないか。親友には戻れずとも、いびつな関係であっても、かりそめの平和は手に入るのではないか。そんな考えが魅力的に舞う。
でも、と綱吉は骸を見つめた。目が合うと骸は虚ろな笑みを深めた。結局、虚ろだった。
(やっぱり、こんなの……!)
行き着く場所のない思考を振り切って、綱吉は骸の手首を逆に掴み、思い切り引き寄せた。
「綱吉君?」
綱吉の腕に閉じ込められる形で、骸は意図がわからないとばかりに綱吉の方を向くが、綱吉は骸の肩に顔を埋めて微かに震えていた。
「骸。怒らないで、聞いてほしい」
静かに、告げる。震えが少し大きくなって、綱吉は骸を強く抱きしめることでなんとか声だけは震わせないように努めた。
「俺は、骸が好きだよ。大好きだよ。でも、骸が欲しがってる『好き』じゃない」
その一言で、骸の身体が強張るのを感じ、綱吉は小さく唾を飲んだ。どうか聞いて、最後まで聞いてと祈りながら。
「お願いだ。俺の気持ちを、作り替えないで。俺が骸に感じる『好き』を、否定しないで」
「意味が理解出来ません。僕は否定など――」
「してるよ!!」
強く言ってしまったことを少し後悔しながら、綱吉は騒ぐ心臓を必死に宥めて続ける。
「今も、してるんだよ。俺はね、自然に笑ってくれる骸が好きだった。他愛ないことで笑ってくれる骸が、好きだった。でも最近の骸は、笑ってても笑ってないよ! 笑えてないよ……!」
「……」
「俺は、骸がどんな身体でもいいんだ。ただ穏やかに笑ってくれるなら、それでいいんだ。もう、昔のようには戻れないかもしれない。でも今のままじゃ、前にも進めない。ずっと互いに依存し合って、歪んだ感情で縛り合って、骸の望みは……永遠に、叶わない」
「何を、言っているのですか。僕の望みは、君と……!」
「違う。お前が本当に望んでいたのは、もっと穏やかな日々だったはずだよ。俺と骸と白蘭と、三人で原っぱに寝転がって、なんにも考えずに空を眺めているような、そんな幸せ。骸は、当たり前の幸せが欲しいんだよ。生きてるとか死んでるとか、そんなの全然関係ないような、普通の幸せ」
骸がきつく歯を食いしばるのを感じて、綱吉は少し腕の力を緩めてそっと骸の頭を撫でた。さらさら靡く髪は幻覚の産物だけれど、春風に揺れているように思えた。原っぱに寝転がって、なんにも考えずに空を眺めていても、きっとこの髪は同じように揺れるのだろう。
「なあ、骸。白蘭と、話をした方がいい。きちんと話をした方がいい。誰よりも骸のことを考えているのは、きっと白蘭だよ」
途端、骸の髪に触れていた綱吉の右手が強い力で掴まれた。
「何を言うかと思えば、僕にアレと話せと?」
すぐ近くで紅い瞳と蒼いビー玉とが綱吉を射抜いていた。
「はっ、そんなの御免ですよ! クフフ、あの男が僕のことを考えているですって? 燃えるゴミに出すか燃えないゴミに出すかで悩んでるだけだろう!」
「――違う!! お前は白蘭がお前を思う気持ちを誤解してる! 白蘭は俺に言ったんだ! 俺に、骸のことだけ考えてほしいって! 骸の願いを叶えてほしいって! 白蘭は……っ、白蘭は骸のことを一番に考えているから、だから俺にそんなこと言ったんだよ! 本当は自分で骸を幸せにしたいと思ってるのに、骸は白蘭を拒絶するから俺なんかに頼って……! そこにある白蘭の気持ちに、目を向けてもいいんじゃないの!? 喧嘩したなら、仲直りだって出来るはずだ! だって、たった一人の兄弟なんだから……!」
綱吉の言葉に、骸はくしゃりと顔を歪めた。
「兄弟? クフフ、兄と弟の美しき関係ですか? ……そんなの、儚い幻想だ」
骸は項垂れるでもなく、ただ視線を下へ落とした。
「『君の味が忘れられなかった』」
ぽつりと呟かれ、綱吉は絶句した。
「あの男が転校と称してこちらへ来た時、僕に囁いた言葉です。君にはきっと聞こえていなかったでしょうね」
骸は綱吉を見ないままに続ける。
「僕はこれまで、君にだけは何も隠さず話してきました。僕らを作り出した研究所での生活、白蘭とふたりきりの生活、僕がマフィアを潰して遊んでいること、僕の身体のこと、僕の気持ち。でも、ひとつだけ、話していないことがあるんです。別に隠していたわけではありませんが、結果的に今日まで君に話したことはありませんでしたね」
そっと骸が顔を上げる。悲愴に歪んだ表情は、深い傷を思わせた。
「十年前、白蘭は僕を犯した」
「……!?」
「借り物じゃない、僕の本当の身体でした。白蘭と僕を兄弟と立証出来る唯一の証を、あの男は穢した。そういえば、あのグロテスクな肉の塊はどんなふうに処分されたんでしょうかね……。燃やしたか、埋めたか、池にでも捨てたか。ああ、腐肉を好む動物にでも与えたか――」
「やめろ!! お願いだから、自分のことをそんなふうに言うな……!」
綱吉はどうすればいいのかもわからぬままに骸の頭を抱え込むようにして抱いた。幻覚で作られた体温は感じられず、骸の身体は死体の温度をしていた。その意味を、骸の感情を、綱吉は全身で受け止めていた。受け止めることしか、出来なかった。
「クフフ、嬉しいな、綱吉君。これで君は、本当に僕のすべてを知った。その上で、君は僕を叱ってくれる。やっぱり、僕が信じられるのは君だけです。君があの男のことをどう思っていようが、僕はあの男を兄とは認めない。僕はね、兄のことが大好きでした。もちろん綱吉君が一番ですけど、でも、たぶん君と同じくらいに、兄が好きでした。綱吉君が気付かせてくれたんですよ。でも、気付くのが遅過ぎたんです、きっと。もっと早くに気付いていたら、今とは違う道を歩めていたのかもしれない。もっと早くに、君と出会えていれば……」
悔恨を滲ませて呻く骸は、泣いているのかもしれない。涙は出ずとも、骸は震えていた。
「……まだ、間に合うよ」
意識せぬままに、綱吉は呟いていた。
「だって、骸にそれを気付かせた俺は、ここにいるんだから。俺なら、今の骸に白蘭の想いを気付かせてあげることだって出来るはずだよ。骸は俺のことを信じてくれるだろ?」
「僕は……でも……」
「お前、兄弟喧嘩じゃなくてただの喧嘩なんだって、前に言ってたよね? どっちだろうと喧嘩は喧嘩だよ。共通点はひとつ、仲直りが出来ること、だよ」
他に何かあるか、と訊けば、骸はどうしていいのかわからないのか、無言だった。
「大丈夫。すぐに仲直りしろなんて言わない。出来るとも思ってないよ。でも、話してみるくらいはいいだろ? 一度、ちゃんと話をしてみるんだ。いっそ口喧嘩でもなんでもいいんだよ。きちんと言葉をぶつけ合って、少しでもお互いを理解出来ればそれでいい」
「……仲直りや理解だなんて、そんな生易しい問題ではありません。僕は、あの男が憎い」
「骸……」
「――でも、君がそれを望むなら、君の願いを叶えましょう。ただ一度だけ。本当に話をするだけだ。それでも一度だけ、他ならぬ君のために……」
きゅ、と背中のシャツを握られる感覚に、綱吉は小さく息をついた。
「ありがとう、骸。わがまま言って、ごめんね」
昼休み直後の授業も半ばを過ぎ、教室の中はノートをとる者や窓の外を眺める者、寝る者やラクガキに勤しむ者などに分かれていた。白蘭はそのどれでもなく、ただじっと前の空席を眺めていた。誰もいないそこを見つめながら、頭の中は昼休みに聞こえてきた会話がリフレインしている。
話が、出来るのだろうか。
小さな期待と大きな恐怖が同居して、どうしようもなかった。
そんな中、遠慮など微塵も感じさせぬ様子で教室の後ろ側の扉が開かれた。国語教師の淡々と平家物語を読む声がとまり、異様な雰囲気に寝ていた者も起き出した。しかし白蘭だけは骸の机をじっと眺めて、意識をずらすことはなかった。
「白蘭」
決して大きくはないがよく通る声が響く。
白蘭はびくりと大きく震え、迷いながらも声の主の方を振り向いた。
「……骸君」
「少し、話が」
「……うん」
会話はほんの僅か。教師も生徒たちも誰も止めることは出来ず、二人は少しの時間を空けて教室を出て行った。
非常階段の踊り場は昼休みの白蘭の定位置になっていた。不良のたまり場のような雰囲気は事実そのままで、そこかしこにタバコの吸い殻が転がっている。だがそうした張本人たちは白蘭によって手荒に追い出されて久しい。今は遠く教師の声やグラウンドの声が聞こえる以外には木々のさざめきだけが流れていた。
白蘭は踊り場に、骸はその上の階段に。腰を落ち着けることもなく見つめ合うこともなく壁に背を預けた。
「……話。あるんだよね? ふふ、何かな〜!」
沈黙に耐え切れず白蘭は道化を演じて切り出したが、骸は短く「ええ」と答えたきり、また無言になった。
白蘭は居心地が悪そうに踵で床を小突き、低く唸った。話したいことはあってもこちらから言い出すことは出来なかった。
「……白蘭」
ややあって呼ばれれば、心臓が大きく脈打った。慌てることはないと思いつつも、応える白蘭の声は上ずっていた。
「な、なーに?」
「綱吉君の、料理の味は?」
「え――」
白蘭は胸の奥が一気に冷めていくのがわかった。そんなことどうだっていいじゃないかと口に出してしまいそうだった。
「白蘭?」
それでも名前を呼ばれればそれだけで心のどこかが熱くなって、白蘭は重い口を無理矢理に開いた。
「……玉子焼きは、ちょっと苦かった、かな。たぶん焼き過ぎたんだと思う。ミートボールは化学調味料の味がきつかったよ。市販品だったのかも。何かの煮付けっぽいのはいい味だった。ごはんは普通。でもちょっとゴマが足りなかった。……そんなかんじ」
「そうですか」
無感情に列挙された感想を骸はどう受け取ったのだろうか。曲げた人差し指の関節を唇に当て、何かを考えているようだ。
「……あ、あのさ――」
「ねえ、綱吉君の味はどうですか?」
白蘭自身何を言おうとしていたのかわからない言葉は、骸の感情の読めない声に遮られてしまった。眉をしかめた白蘭を見つめ、骸はただ答えを待つ。
「知っているでしょう?」
冷えた微笑を見せて。
「……残酷、だね」
白蘭は声の高さを一定に保つのに並々ならぬ努力を要した。胸に張り詰めるものを感じて、どうしたって苦しかったから。答えられるからこそ苦しかった。触れた唇のぽってりとした柔らかさも、舌に絡む唾液の卑猥な音も、鼻から抜ける熱い吐息も、白蘭は全部知っているのだ。
「ツナ君は――」
本音を言うなら、骸との会話にその固有名詞を出すことすら嫌だった。せっかくの二人きりの時間が汚されてしまうような気がして。
けれど綱吉が白蘭の言った通りに骸の望みを叶えてやった以上、ここで骸の問いをうやむやにするわけにはいかなかった。答えを求められているのだから、答えをあげなければ。
でも――
「ツナ君は、苦かったよ」
骸の望む答えはどうしても口にすることが出来なかった。
「苦い?」
骸は何を言っているのか、とばかりに剣呑に目を細めた。けれど白蘭の答えは変わらない。
「甘くなんか、なかったよ。おいしくなんかないんだよ。苦くて苦くて吐きそうになる。二度と味わいたくないくらい。ううん、二度と味わいたくない……! あんな想い、二度としたくないよ!! お願い骸君、もう、やめて……! もう、許してよ……っ」
途中からは、もはや懇願だった。目を合わせていることも出来ず、顔を視界に入れることも出来ず、白蘭は俯いて肩を揺らしていた。表情は前髪の影に隠されて窺えないが、上履きに小さな染みが出来ているのがわかった。
「許す? なんのことを言っているのですか? 僕を裏切ったこと? 僕を欲望のままに貫いたこと? 僕の綱吉君を奪ったこと? 僕にこんな身体を押し付けたこと? ……ああ、生まれてきたこと?」
白蘭は信じられないとでもいうように目を見開いて顔を上げた。
「僕っ、が……生まれてきたことも、嫌だったの……?」
涙に濡れた顔はひどいものだった。無理に誤魔化して口の端を持ち上げた半笑いは、まるで歪んだ仮面か何かのようで、隠し切れない悲哀はぽろぽろと落ち続ける。
「そういうあなたこそ、僕が生まれて来て嫌だったのでは? こんな中途半端な化け物、血が繋がっているだなんて認めたくなかったでしょう?」
骸の声は淡々としていながらも白蘭を糾弾するものだった。
「だからそれっ、本当に違うんだよ! 全然違うんだよ! 僕は君をそんなふうに思ったことなんて一度もない!! 僕は君が弟で誰よりも幸せだった!!」
白蘭はがむしゃらに叫んでいた。廊下に限らず辺り一帯にその声が響き渡り、少し離れたところにある教室から生徒が何事かと顔を出す。骸の剣呑な視線ひとつですぐに引っ込んだが。
骸は手に負えないとばかりに首を振り、白蘭に向き直る。
「生まれてすぐ僕が棄てられそうになった時、あなたは身を挺して庇ってくれましたよね。嬉しかったですよ、とても。胎内にいた時も、あなたったらしょっちゅうちょっかいをかけてきて……。少し煩わしかったけれど、一人ではないことが嬉しかった。あなたがいたから、安心出来た。思えば、あの頃が一番穏やかな日々だった」
でも、と区切り、骸はどこか疲れたように壁に寄り掛かる。
「――お前は僕を穢した」
こちらを見もせず吐き出された言葉に、白蘭は軋む胸を押さえた。
「そ、それは……ただっ、僕は! 僕は好きな人と繋がりたかっただけだよ! 愛してるからっ、骸君を離したくなくて、骸君を感じたくて……! 今の君ならわかるでしょ!」
「ええ、よくわかりますよ? 綱吉君と繋がるのはとても気持ちがいい。満たされて、もう何もいらないとすら思える。でもね、あなたも知っての通り、僕には欠けているものが多過ぎるんですよ。味はおろか、体温すらわからない。生きることと死ぬことの基本概念も理解出来ない。そういう欠落を自覚する度に僕は思うんです」
骸の手が自身の腕を撫で上げる。
「もし、あなたと僕の立場が逆だったら、とね」
その爪がふいに薄い肉に突き立てられ、血が滲んだ。白蘭は痛みよりも次にもたらせられるだろう言葉が恐ろしくて、身を竦めた。けれど骸は白蘭を視界に入れはしなかった。壊れて機能しない蛍光灯を見上げ、どこか疲れたように呟く。
「わかりますか? 僕はずっとあなたを羨んでいた。妬んでいた。でもあなたは僕にとても良くしてくれましたね。僕と同じであろうと……そう、僕に合わせてくれてたんですよねぇ」
ぽたり。深く抉った腕からぽたぽたと血を滴るのに視線を落とす。すぐに赤い染みとなったそれに興味を失くし、骸は顔を上げて白蘭を見据えた。そして苛烈な炎が高ぶるままに心を吐き出した。
「わかりますか? それがどれだけ僕の劣等感を煽ったか! 僕が求めても得られないものをあなたは当然のように持っていて、その上で僕の隣で足並み揃えておんなじフリをしてくれてたんですよね! ああ、なんて優しい白蘭! あなたは僕の心が軋む音に気付かない!!」
「骸君っ、それは――」
「はっ、わかってますよ。僕があなたでもきっとそうした。だから僕は薄暗い感情を閉じ込めてあなたの優しさを受け入れたんだ。あなたのおかげで、僕は死んだ身体でもいいと思えるようになった。劣等感も押し込めることが出来た。なのにあなたは僕を生き返らせようだなんて言い出した。そして――僕を犯した」
白蘭はびくりと肩を揺らして、ゆっくりと骸が空虚な視線を落とす様に捕われた。
「あなたが穢したのは、僕の身体じゃない。僕が乗り越えて来たすべての感情、その上に積み上げた僕の矜持! ……今の僕にはもう、それがない。もう、失ってしまったんだ。僕は綱吉君の体温を感じたい。綱吉君の唇の味が知りたい。綱吉君の爪がくれる痛みを知りたい。綱吉君のすべてを感じたい! ずっと我慢していたのに、叶わない願望ばかりが溢れて苦しい……っ」
白蘭は何かを言い返すことも手を伸ばすことも出来なかった。
「僕が得るべき感覚の全てを、あなたが感じているんだ。僕が欲しているものを、今もあなたは持っているんだ。僕はあなたになりたかった。誰に与えられるのでもなく、ただあなたになりたかった。でもこんな形を望んだわけではなかった!!」
さらさらと木々が揺れる。骸の悲鳴のような叫びにも動じないそれが、白蘭はひどく羨ましかった。
「あなたは僕の劣等感を煽るのが本当にお上手ですよ。まったく……何が兄弟だ……っ」
骸の言葉はあまりにもストレートで、それだけに疑いようもなかった。
さらさら、さらさらと、木々は揺れる。
風は、最初から成長することの許されない骸の髪を流し、その下に隠されていた表情を露にした。泣き縋る子供の顔だった。
「あのさ。十年分の誕生日プレゼント、あげてなかったよね」
白蘭は穏やかな声音で問う。答えは最初から知っているから、疑問符はつかなかった。
「僕は君のお兄ちゃんだからさ、プレゼント、あげたいんだ」
その物言いに骸は僅かに肩を揺らして、けれど顔をあげることはなかった。
「生命が、欲しい? 生きてみたい?」
「欲しいと言ったらくれるんですか? そんな簡単なものではないだろうに、上っ面だけの慰めを口にしますか」
「慰めなんかじゃないよ。今すぐにとはいかないけど、でも、そう遠くない未来には、必ず」
「……信用出来ません。都合のいい言葉は、特に」
「信用しなくていいよ。君がイヤって言っても、勝手にプレゼントするから」
――だから、待っていてほしい。
そう口にした白蘭を、骸は見ることが出来なかった。ゆっくりと踵を返し、骸は背を向けた。
「好きになさい。あなたにはもう、何ひとつ期待していない」
話は終わったとばかりに非常扉に手をかけた骸に、白蘭は精一杯の勇気を持って息を吸い込んだ。
「骸くん大好き!! ホント好き! 生まれる前からずっと好き! いつまでだって愛してるから!!」
頭が悪い台詞は白蘭らしくて、骸は小さくため息をつきながら扉の向こうに消えた。
――ウソつき、と呟いて。
な、長い……!
2話に分ければ良かったかなと思ってます、すいません。
そんなわけで、淡〜くフラグが立ちました今回、いかがでしたでしょうか。
ちなみに、実はもうこちらの最終話に着手してみたりするのですが、そこにいたるまでにはまだ長くかかりそうです。
でも少しずつ三人の関係が変わりつつあるので、方向は見えているのではないでしょうか。
……ごめんなさい、調子のりました。「見えているといいな〜」くらいで(笑)
そんなこんなで、まだ続きます。
最後までお付き合いくださると幸いです。
2009.5.6
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