03.愛撫




 その息苦しい日は、不自然な程静かに終わった。
 全ての授業が終わっても、骸は席についたままだった。いつもならすぐに綱吉と共に寄り道をしながら帰るのだが、この日は違った。

「骸君、帰ろうよ」

 白蘭は動かない骸の横に立ち、多分に含みを持って言った。
 しかし骸はやはり立ち上がろうとはしない。文庫本を開いて顔すら上げなかった。
「ねえってば」
 教科書を机にしまっていた(いわゆる置き勉)綱吉からは、なおも言い募る白蘭の広い背中が壁になって見えなかったが、白蘭の手に文庫本があることから、どうやら白蘭が骸の本を奪ったらしい。
 本のタイトルは綱吉の知っているものだった。というのも、骸が以前図書室で借りて10分も経たずに読み切り、作者の浅学がすぐわかる駄作だと評価していたものだったから。
 骸は同じ本を読まない。一度読めば内容を覚えてしまうようで、どんな駄作も一度は読むけれど、どんな良作でも一度しか読まない。
 つまりあの本の用途は全く別のことにあった。
「…………」
 だから本を取り上げられても奪い返そうなどとはせず、骸は無言を貫いている。
「だんまり? ふぅん、ならいいよ、ツナ君と二人で帰るから」
「……!!」
「え……」
 突然話を振られ、綱吉は困惑をそのまま声に出した。白蘭の発言に戸惑ったと言うより、骸がいきなり立ち上がったことに驚いていた。
「あれ? なんだ、やっぱり骸君も一緒に帰りたいんじゃん。素直じゃないね〜」
 にやにやと口元を歪めて、白蘭はぽん、と骸の肩を叩いた。
 そしてさりげなく骸の耳元に口を寄せて、また何かを囁いた。

「……っ」

 骸の表情がみるみる苦しげに歪む。だが綱吉が何事かを尋ねる前に、白蘭はこちらを振り向いて文庫本を掲げて見せた。
「これ返却がてら骸君に図書室案内してもらうから、ツナ君はここで待ってて」
「え……! いや、俺も行くよ!」
 骸の様子がどうにもおかしいのだ。朝のこともあるし、二人きりにすべきではないと直感すらも告げていた。
 しかし肝心の骸本人は首を緩く横に振った。
「いい、ですから。綱吉君はここにいて下さい……」
 覇気をどこかに置き忘れたように言われても、綱吉は従おうとはしなかった。
「遠慮するなよっ。ひとりで待ってるのも暇だし、先に帰るのも嫌だしさ!」
 そんなのは建前だということは、わかりきっているけれど。
「ほ、ほら二人ともっ、早く行って早く帰ろ?」
 バレバレの作り笑いをなんとか浮かべて、綱吉は手を差し延べる。
(骸……手を取って……!)

「………………っ」

「あれ? いいの骸君? 君が取らないなら僕が取っちゃうよ?」
 白蘭の手が、綱吉の手に伸びる。

「……白蘭!!」

 声を荒げて、骸は白蘭の腕を掴み止めた。
 そして自身の手を白蘭の手に重ね、指を絡めて握る。恋人同士がするようなその仕草は、その実甘さなど毛の先程も含んでおらず、実に白々しい。実際、その手はかすかに震えていた。
 白蘭は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐに子供のようにはしゃいだ声をあげる。
「ふふ、やっぱり骸君は可愛いね〜!」

 そう、食べちゃいたいくらいに。

 その一言は、綱吉に何かを予感させるには十分だった。しかし綱吉が言葉を発するより、骸が白蘭の手を引いて歩き出す方が早かった。
「ここで待ってて下さい、綱吉君」
 綱吉を安心させるように微笑んで、骸は上機嫌の白蘭とともに教室を後にした。

「…………笑顔が嘘っぽいよ、骸……」

 ひとり取り残された綱吉は、誰もいない教室でぽつりと呟いた。

















 図書室についた途端、白蘭は骸の腕を引いてその細い体を本棚に叩き付けた。
「……っ!」
 骸がその衝撃に戸惑うのにも構わず、白蘭は獰猛な動きで骸の顎を固定する。驚愕と怒りに揺れる紅と蒼の瞳と、劣情を隠さぬ薄紫の瞳とがぶつかった。
「びゃく――んっ……!?」
 罵声も悲鳴も封じ込めるように骸の唇を貪るもうひとつの唇。
「ん……っ……びゃ、くらっ……やめっ……!」
 何度もくちづけては離れ、徐々に深さを増していくそれには、優しさなどかけらもなかったし、時折漏れる声には明らかな嫌悪と怨嗟ばかりが込められていた。なんとか骸は抵抗を試みるが、右手は白蘭の左手と絡んだまま繋ぎ止められ、左手は白蘭の身体と本棚との間に挟まれて動けない。身をよじっても、それのどこが面白いと言うのか、白蘭は喜々として自身の身体を擦りつけてきた。
「く……っ……やめっ…………っぁ!?」
 そして荒々しい野獣の口は更なる深まりを求めて小さな隙間を無理矢理作った。その道を通って蠢く舌が侵入してくるのを感じて、骸の身体は思わず震えた。
 幼い頃からスキンシップを好む兄だった。手を繋ぐのは必ず兄からで、同じベッドの中で抱きしめてくるのも兄からだった。でも二人で一人だから、骸は特別感慨も抱かなかった。右手と左手を合わせても愛しさなど感じないように、唇を合わせても愛なんて感じなかった。兄がそうでなかったことを知ったのは、少し後のことだったけれど。
「ん……ぁっ……」
 暗闇に包まれた過去をひもといていた脳は、口内をまさぐる舌によって現実に引き戻された。
(……兄は、もういない……っ)

 がりっ

「っ!!」
 白蘭が突然の苦痛に顔を歪め、顔を離した。その口から唾液と共に血を零して。
 ぽたりと滴るそれを見て、骸はせせら笑った。顔は全く似ていないけれど、床に落ちた血の色は骸の右目によく似ていた。
「……やってくれるじゃん」
 呻きながら、白蘭が袖で口元を拭う。まだこの学校の制服は届いていないらしく白い見慣れない制服だったが、すぐに赤くなった。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
 骸もまた袖で白蘭の血と唾液とを強く拭う。深緑の学ランは血を吸って黒くなった。
(気持ちが悪い)
 内心で吐き捨てながら、いつの間にか床に落ちていた文庫本を拾う。ここへ来たのはこれを返すためだ。ただそれだけのために来た。こんなことをしに来たわけではないのだから。幸か不幸か図書室には誰もいないが、返却ボックスと書かれた箱にそれを入れれば目的は達成できる。
「僕よりそんな物を気にするの」
 ぐいっ、と文庫本を拾った腕を引かれるも、骸は踏み止まった。また本棚に叩き付けられるのも、あんな行為に及ばれるのも御免だった。
「あなたにこの駄作より価値があると?」
 触れるのも汚らわしいとばかりに腕を振って白蘭から逃れようとして、しかし白蘭の手はぎちりと嫌な音を立てて骸を捕らえ続ける。
「離せ。僕に触れるな」
「……うるさい口だね。太くて硬いので塞いであげてもいいんだよ?」
 白蘭が顔を寄せて囁く。
「はっ、どうぞ御自由に。食いちぎられて間抜けな死体を晒したければね」
 骸もまた、白蘭の耳元で囁いた。
 互いが互いの首を狙う緊張感と高揚は、しかし長くは続かなかった。

 がららら……

「あら、ごめんなさい。本の返却かしら?」
 司書らしき女性は返却ボックスの前に立つ二人に気付いたが、その時には既に妖艶な空気は霧散していた。
「もうボックスに入れてしまいました。大丈夫でしたか?」
「ええ。後はやっておくからそのままでいいわ」
「そうですか。では、僕はこれで」
 柔らかく微笑んで、骸は図書室を後にした。
 当然のように白蘭も続くのを見て、司書の女性はくすくすと笑った。

「手を繋いで帰るなんて、よほど仲がいいのね」


























「あーぁ、邪魔が入っちゃった」
 恋人のようにしっかりと指を絡ませたまま廊下を歩き、白蘭は不服そうに口を尖らせた。
「こういう時に限って骸君は手を離してくれないし〜」
 そして繋がれた手をぶらぶらと揺らす。まるで子供のような仕種のそれが、骸にとっては不快だった。今すぐにでもその手を切り刻んで、触れた部分をこそぎ落としたいくらいに。
「あんなの気にしなくていいじゃん。気になるならスパッと始末すればいいし」
「…………」
 骸の眉がぴくりと動いた。そのわずかながらも確かな反応に、白蘭は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 骸君、赤の他人のことなんて気にするタイプじゃないでしょ?」
 昔からそうだったのだ。骸は人の命に頓着しない――いや、出来ない。10年の月日が経とうとも、人の本質はそうそう変わりはしない。だからあの時白蘭が懐に忍ばせた手を骸が止めたことはとても不思議で、理解できなかった。理解できないなんて、白蘭にとってはあってはならないことだったのに。
「……別に。あなたには関係のないことです」
 にべもなく言い捨てて骸はようやく手を離し、足を速めた。全身から拒絶の気配を広げて、冷たい背を向ける。それが無性に腹立たしくて、白蘭は笑みを消した。
「何。ひょっとしてツナ君がいるから学校じゃ大人しくしてるわけ?」
 嘲笑うような声音は、骸の否定を望んでいた。けれど、骸は首を縦に振ることはせず、無言で歩き続ける。白蘭も骸に合わせて歩調を速めているので物質的な距離は変わらないけれど、どんどん離れて行こうとしているようで胸の奥がちりちりした。
「答えなよ」
 骸の肩をわしづかんで、こちらを振り向かせる。必然的に両者の足は止まるが、白蘭には骸が側にいる気がしなかった。
 強引に視線を合わされた骸は、どうでもいいとばかりに小さく息を吐いた。
「あなたの想像通りですよ、とでも言えば満足ですか?」
「……何ソレ。馬っ鹿じゃないの?」
 肩を握る手に力が込もる。しかし骸は痛みに顔を歪めることもなく、何の感情も映さぬ瞳で白蘭を見つめた。それは白蘭の神経を逆なでし、容易に苛立たせた。
「君がこの10年の間に陰でしてきたことを僕が知らないとでも思ってるの? 今更イイ子ぶっても無駄だよ。一度染み付いた血は何度拭ったって消えないんだから」
 白蘭は地を這うような声音で囁いた。
「あ、そうだ! ツナ君に全部言っちゃおうか! 君のことぜ〜んぶ。そうしたらきっとツナ君は君から離れて――」

「知ってますよ」

「…………は? 今、なんて?」
「だから、彼は全てを知っていると。そう言ったのです」
 ぱし、と乾いた音を響かせて、白蘭の手が払い落とされた。それを茫然と見つめながら、白蘭はうわごとのように、何ソレ、と呟く。
「信じられませんか? 僕が受け入れられるはずがないとでも思っていましたか? 受け入れてやれるのは自分だけだなんて自惚れていましたか? 今でも二人で一人だなんて愚かな妄想に取り付かれているんですか? だとしたらなんて底の浅い人間でしょう。実にくだらない。取るに足らない。僕の視界を汚すだけの無価値な生き物――」

 ぱんっ

 辛辣な嘲罵に、白蘭の手は思わず骸の頬を打っていた。しかし打たれた骸よりも打った白蘭の方が苦痛に表情を歪め、肩で荒い息をしている。
 そして息を整える間もなく、その震える口で骸の口を塞いだ。
「…………」
 骸は今度は抵抗もしなければ感情も見せず、ただ近くにありすぎる薄紫を無感動に見つめていた。その異質な二色の瞳は、お前など無価値なのだと雄弁に語っていた。
 一方的に貪る白蘭が虚しくも卑猥な水音を響かせて唾液を味わえば、血の味が舌の上に広がった。唾液も、血も、どちらも白蘭のものなのかもしれない。けれど、嘘でも、思い込みでも、骸の味は白蘭と同じだった。
「……僕と同じ」
 つ、と透明な糸で繋がったままに唇を離して、小さく呟いた。
「同じ。僕と同じ。僕らは同じ。今も昔も、僕は君で、君は僕だ」
 そして二人の間で、ぷつりと糸が切れる。
「……わかっているくせに認めないんですね。いえ、認めたくないだけでしょうか、可哀相な白蘭?」
 濡れた唇もそのままに、骸は心底からの同情を表した。同情は、他者にするもの。白蘭を他者として受け止め、嫌悪している証。同じではない証。二人はとても良く似ていて、とても他人だった。
「せっかく迎えに来たのに、君は僕を突き放すんだね……」
 白蘭は感情を胸の奥深くに隠して、喉を震わせた。地響きみたいな声だった。
「あなたが兄であれば、僕は受け入れましたよ。でもあなたは白蘭だ。だから僕は受け入れられない」
 それだけの話だと断ち切って、骸は何の未練も感じさせない足取りでその場を後にした。
 白蘭を、置いて。


「何、それ。わけわかんない……」


















2008.8.17




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